て受け容れればよく、私のここで云はうとすることは、彼れコポオが、取つてもつて舞台の生命としたもの、しようとするものは、決して、単なる戯曲文学の思想や形態ではなく、古今を貫く戯曲文学の精神であり、魂であり、その精神に導かれた共通の韻律美だといふことである。彼は好んで、劇作家といふ代りに「詩人」と呼ぶのであるが、これは旧い語例によつたにもせよ、彼の戯曲に求めるものを暗示してゐるわけだ。
 しかし、注意しなければならないことは、この文学の使徒の如く見えるコポオが、作品をマスタアする力量に於て、近代劇場人の何人よりも優つてゐると思はれることだ。ラシイヌの一齣を朗唱するに当つて、国立劇場の悲劇俳優が達し得ない理解を示し、その表現に於て、伝統的型を破りつつ、この天才詩人の微妙な感覚を浮き上らせるのである。更にまた彼の「フィガロ」は、十八世紀以来忘却されてゐたボオマルシェの創造を遺憾なく分析しそのいちいちのニュアンスに決定的な近代的着色を施した。民衆の英雄フィガロは、コポオの解釈によつて、はじめて、封建制下の床屋気質と、将に勃興せんとする自由主義の血脈を舞台にさらけ出した。彼は、舞台に立つて、さほど偉大さを感じさせる俳優ではないが、これは、俳優として肉体的資質に、どこか欠陥があるためであらう。しかし、如何なる戯曲中の如何なる人物についても、「かくあるべきである」といふ解釈には驚歎すべき発見と独創が含まれてをり、如何なる文体の如何なる白も、一と度び、彼の口を藉りれば、「かく言はるべきである」といふ、生きた人間の魅力ある言葉となるのである。
 このセンスは、彼の主張の根柢をなす強味であり、この才能は、彼の業績をある程度まで世人の脳裡に刻みつけた。しかし、彼は、単なる理論家であることにも甘んぜず、先駆者たる誇りにも安んじることができなかつた。彼は、仏蘭西の演劇を、成し得れば、悉く一手に引受けて、その面貌を一新させたかつたのだ。この欲望は、彼の口からは決して漏らされなかつたし、また、さういふ野心が遂げられるとも思つてゐなかつたらうが、彼の思想的一面に触れたものは、彼が、演劇を以て、直接民族精神の発揚、自国文明の浄化に資せんとしてゐたことは、察し得られるのである。
 これがつまり、私の云ふ、ヴィユウ・コロンビエ座の運動が、「演劇の純化」を標榜しながら、「純粋演劇」といふ問題の一歩手前で、先
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