づ、その理論的進展を中止した原因であらうと思はれる。

       三

 さて、それでは、「純粋演劇」といふ立場から、われわれは、今、何も問題にすることはないかといへば、決してさうではない。殊に、わが国の現状を顧みれば、この問題は寧ろ、欧洲諸国よりも先に解決せられるべきであると思ふ。なぜなら、これこそ、今日の新劇をして、一応、自分たちの姿を正視させることに役立ち、同時に、演劇の本質なるものを、裸のまま、吟味する機会が与へられるであらうから。
 この限られた記述の中で、私の所論を的確に要約することは、甚だ困難であるやうに思ふ。ただ、「純粋演劇」とは如何なるものであるかを理論づける上に、先づ、文学に於ける純粋詩、純粋小説(ブレモン、ヴァレリイの詩論及び作品、ジイド、プルウストの評論及び小説)、造形美術に於ける印象派以後の運動、音楽に於ける交響楽の原理殊にドビュッシイの手法、映画に於ける「伯林」、「ひとで」等の所謂「純粋映画」の傾向等は、極めて示唆に富むものであるが、それ以上に、根本の研究として、希臘劇、シェイクスピイヤ、ラシイヌ、モリエエル、その他、東西の重要なる劇作家を通じて、その「文体」に共通する一つのリズミカルな生命を摘出することが企てられなければならない。そして、更に、舞台の幻象《イメエジ》を形づくる要素が、果して、今日まで、一定不変であつたかどうかを考へてみる。その上、それらの要素が、如何なる関係で、そこに現はれ、また、現在如何なる価値をもつてゐるかを判断する。
 さうした結果、演劇に必要なものと、必要でないものとを区別することができるだらう。必要なものだけで、ある「演劇」が組立てられるとして、それが、如何なる条件で、「美」の観念と結びつくかを考へる。
 私は今、具体的に一例を頭に描いてゐるのだが、どうもうまく云ひ現はすことができない。しかも、説明のために強ひて、過去の形式の中にその例を求めれば、やはり、能楽などは、「純粋演劇」に最も近いものであり、ただ、その古典的色彩のみが今日、われわれの目指すものと凡そ隔りがあるといふばかりである。歌舞伎劇にしても、その形式のあるものは、現代の演劇を通じて比較的「純粋演劇」の体を備へたものであると見られるが、これも亦、その形式の固定と、近代性の欠如によつて、「新しい芸術」とはなり得ない運命にある。能楽と云ひ、歌舞伎劇と
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