云ひ、共に、その形式が、そのまま、将来、「純粋演劇」の一形式として採用せられるとは考へられない。あの形式を生んだ時代は、再び来ないと同様、今後「純粋演劇」の運動が起るとしても、能楽や歌舞伎劇に、直接暗示を得るなどといふ時代錯誤が行はれたら、それこそ滑稽である。外国人には、さういふところがわからないので、珍らしいものが新しいのは当然であるが、珍らしくないものに新しい生命を見出すことは、それ以上の深い根拠がなければならない。
要するに、「純粋演劇」の見本なるものは、将来、無数に示されるものと予想して、さて、これに伴つて、「純粋戯曲」なるものが現はれて来るであらうといふことも考へられる。或は、この方が、先に現はれるのではないかとも思ふが、それはそれとして、私は差し当り、自分の仕事として、これに向ふ一つの道を開拓することに興味を感じてゐる。
私のこれまで発表した貧しい作品が、殆んどすべて、その方向を見極めるための、右往左往であつたとも云へるのである。そしてそのことを、私は嘗て、「何かを云ふために戯曲を書くのでなく、戯曲を書くために何かしらを云ふのだ」と公言し、いくらかの誤解を招いたと記憶する。ただ、私の朧ろげに掴み得た「純粋戯曲」といふものは、恐らく、既成観念による文学としては通用し難いもので、これこそ、一連の「声と動作の符牒」にすぎないものである。そんなものを活字として発表することは、今日では無意味のやうに思はれる。それなら、舞台を通して見せるとなると、これを効果的に演出するためには、目下、適当な俳優が見当らない。今日の新劇の如く、辛うじて舞台から文学を感じて満足するなどといふわけには行かぬからである。
だが、これは多分、私の空想に終るだらう。そこへ行くまでに、まだ、どれだけ廻り路をしなければならぬか、それさへ見当がつかぬ。「純粋戯曲」とは、結局、戯曲文学の頂点に築かれてこそ意味があるのであらうが、ただ、わが国に於ける戯曲壇、乃至劇界の現状に照し、戯曲家も、俳優も、演出家も、それぞれの領域のうちで、手も足も出なくなつてゐる場合、ただ、「佳い仕事」をするといふだけの目標では、なんとなく頼りない気がするかもしれぬので、私は、この原因が、わが新劇運動の第一歩に於て作られてゐる事実を指摘し、更めて正しいコースを与へるため、敢て、「純粋演劇」の問題を持ち出した次第である。
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