ることを許されるなら、諸君が今まで手がけて来た古今の大戯曲が、見物を感動させ、面白がらせた原因はどこにあると思ふ。それが、大戯曲であつたためではないか。それならなにも、諸君の手を煩はすに及ばないことだ。それよりも、心を虚くして、その大戯曲の上演に遺憾の点がなかつたか、そして、そこから諸君は何を学んだか、何を掴んだかを省みてみ給へ。その学んだもの、掴んだものが、今日の仕事のうちで如何に生かされてゐるかを考へてみ給へ。私の見るところでは、例へばイプセンで成功したものは、次の出し物の何たるを問はず、再び、イプセンの殻を背負つた舞台を見せようとしてゐるだけだ。諸君は、過去のやや得意な舞台を、その舞台の幽霊を、「演劇とは縁も由緒もない一種の影」を、後生大事に引摺つてゐる。イプセンの「戯曲的なもの」「演劇的なもの」は、最初から、半分以上棄てて顧みなかつた諸君は、その自ら演じた舞台の記憶の中に、何を残してゐるか。イプセン張りの思想と、人物と、わざわざ生硬にされた理窟つぽい会話の調子と、諾威の灰色の空だけだ。これが、「演劇の本質」とどう関係がある。よろしい。偉大な戯曲といふものは、ざらにあるもんぢやない。しかし、「面白い舞台」は、西洋にはざらにある。諸君の目指してゐるのは、それなのではないか。「面白い戯曲」が面白くなくなるとすれば、それは誰の罪なのだ。「つまらない戯曲」が、「面白い芝居」になる例を私は、若干知つてゐる。これは、どういふ訳だ。
はつきり云はう。人間が生きてゐるといふ事実、そして、その「人間」が生きてゐるのを感じるといふことが、先づ、われわれにとつて第一の「興味」である。しかも、今眼前に、その「人間」の一人が、われわれの「夢」をも生活して見せるといふ神秘な芸当は、更に大きな「見もの」である。彼は「語り」彼は「動く」。彼が何を語り、何のために動くかといふことよりも、彼が如何に語り、如何に動くかといふことが、この興味の重点である。なぜなら、われわれは、この「人間」が幸福であらうと不幸であらうと、善人であらうと悪人であらうと、自分は固より、この世の誰彼に何の係りもないことを知つてゐるからだ。われわれは、ただ、一つの魂の微妙な韻律、その韻律の奇怪にして自然な交響楽に耳を澄ます。過去と未来、夢と現実、表と裏の、かの無限に拡大された生活の相と、その生活刻々の「呼吸」に触れ、空間と
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