、演劇に携はるものが、悉く商売人であつたから、例の景品政策で客を釣つてゐたのが、客の方では、それまでも含めて「演劇」の内容であると思ひ込んでゐただけだ。新劇も亦、この轍を踏んでゐるわけだ。景品政策、必ずしも悪いといふのではなく、劇場が演劇以外のものをも同時に商ふなら、またそれはそれで許せるのだが、肝腎の「演劇」は仕入を怠り、それ以外のものを、景品ともつかず、恬然「演劇」といふレッテルを貼つて売りつける如きは、甚だ面白くないし、また、それでは、お客も承知しない筈である。諸君は、そこに気がつかなくてはいけない。これは、しかし、極端な場合で、如何になんでも、「演劇的なもの」が零であるといふ劇場はあり得ないが、今度は、その「演劇的なもの」が、どれほどの価値をもつてゐ、どれほど舞台の上で光つてゐるかといふことが問題で、この点のみからいへば、私の意見は、また正当化されるのである。最近上演された二三の新劇についてみても、劇団側で、さほど自信がなかつたやうに聞いてゐる出し物が、案外、見物にも受け、批評家の賞讃を浴びたといふのは、偶々、それが、「演劇的」といふ点で、自分たちの気づかない魅力を発揮したからだ。この消息を自覚し、遅蒔きながら、「演劇の本質」を探究して、自分たちの仕事を建て直す意気さへあれば、彼等はまだ救はれるのだ。見物たる諸君も、救はれるのだ、われわれ作者は勿論……」
新劇関係者の一人が、若し仮に私を捉へて、かういふ詰問をしたとする――「君は、本質本質と云ふが、一体、何を指して本質といふのか。君は、コポオとやらの言を藉りて、演劇の本質は、古今の偉大な戯曲中に含まれてゐるといふが、われわれは、その偉大な戯曲をこれまで屡々手がけて来た。そして成功して来た。だから、今猶、それを全世界に探し求めてゐるのだ。偉大な戯曲といふものは無数にあるものではない。殊に、現代の演劇が、常に、古典の上演に終始するやうでは、なんのための新劇であるか。われわれの芝居が、仮に、『演劇として』面白くないとすれば、その罪は、当今、傑れたる劇作家が出ないことにあるのだ」
私は、答へるであらう。――
本質についての問答は、別の議論になる。早く云へば水掛論だ。諸君が、既に、それを体得してゐるといふなら、また何をか云はんやだ。私は、ただ、それを疑ひつづけ、今、やつと、否定するところまで来てゐる。ただ、反問す
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