が、どうして一般にアッピイルしないか。まだ芸術的すぎるかしら……。もつとレベルを下げてみてやらう」
観客の方では、かう考へる――「なにしろ、自分たちにはぴつたり来ない。人物の白にしても、何を云つてるかわからないところが多く、それを考へてゐるうちに、次の白を聞き漏すといふ始末だ。いや、それよりも、第一、役者と人物とがばらばらで、見てゐてはらはらしなければならない。頭を使つて冷汗をかくなんざ、近頃の芝居見物も楽ぢやない」
どちらに理があるかといふと、勿論、後者に理があるのである。但し、見物は素人が多いのだから、この批評は素人流であり、新劇に対する理解を示してゐるとは云へないので、私は、横合から、口を挟むことにする――
「お説はいちいち御尤もであるが、これでも、彼等は諸君を馬鹿にしてゐるわけではない。彼等と雖も、職業俳優として立つ決心をつけはじめてゐるのだし、見物を悦ばすといふ点では、人知れず苦心をしてゐるのだ。先づ演し物の選択にしても、翻訳劇なら、西洋で当つたものを第一に選ばうとするし、日本のものなら、雑誌で評判のよかつたものに目をつけるし、文学として傑れてゐても、筋に「やま」がなく、舞台にかけて退屈ではないかと思はれるものには手を出さないし、俳優の演技にしても、見た眼の変化をなるだけつけようとし、少しでも長く同じ姿勢のままでゐることは避けるし、演出者は、絶えず動きの工夫をして、舞台を賑やかに賑やかにと心懸け、装置の如きは、大劇場に負けず、大掛りなものをこしらへ、そのために、経費の大半を割いて惜まず、やや単調な場面には、レコオドの伴奏で景気を添へ、それこそ、あらゆる手段を尽して、見物の「御機嫌」を取つてゐる。なるほど俳優の中には、まだ素人上りの青年男女がゐるにはゐるが、西洋でも、新劇の団体は大部分素人なので、諸君は、自分の好きな友達や恋人が、舞台の経験はなくとも、一緒にゐて諸君を退屈がらせない事実を経験してゐるだらう。そこで、何が新劇をつまらなくさせてゐるかといへば、実のところ、新劇ぐらゐ「演劇の要素」を除外してゐるものはなく、彼等が、舞台を面白くするために持つて来るものは、悉く、演劇にはあつてもなくてもいいものばかりなのだ。ただ、諸君は、習慣的に、劇場へ足を向ける。舞台に「演劇以外のもの」をも求め、期待してゐることはわかるが、それは、習慣的にさうなのであつて、従来
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