時間を超越して、所謂、「心理的リリシズム」の陶酔に浸れればいいのだ。それゆゑ、その「人間」は、何等かの意味に於て、人間としての「魅力」を備へてゐなければならず、言ひ換へれば、俳優とこれが扮する人物との間に、この魅力を最高度に発揮させる用意が必要であり、これさへうまく行けば、「演劇の第一要素」は備つたことになる。裸の舞台の上に、一人の「人間」が、黙つて立つてゐる。それが、なんとなく美しく、眼を惹き、心を躍らせれば、もう既に、それは「演劇的瞬間」である。音曲風に云へば「アン・モオマン・テアトラル」である。断るまでもないが、その「人間」の魅力とは、必ずしも俗にいふ美男美女の類ひを指すのでなく、軒下に佇む身すぼらしい一老婦が、その悩ましい風貌によつて、静かな諦めの眼ざしによつて、又は、過去に積み重ねられた生活の影等々によつてある種の「美しさ」を感じさせることを知らねばならぬ。
さて、その「人間」が、どういふ人間であるかを、われわれは知りたがる。しかし、その時、その「人間」が歩き出す。何をするんだらうと思ふ。すると、独言を云ひはじめる。突然、もう一人の「人間」が現はれる。双方とも驚いて顔を見合はす……。といふ風に演劇は「進行」するのだが、その「進行」に、今云つたやうな「期待」をもつことは、已むを得ないといふだけで、「演劇的」には、重大なことではない。さういふ「期待」を忘れて、瞬間瞬間の「影と動き」に注意を惹きつけられるやうに、見物は訓練されなければならぬ。それは丁度、音楽の演奏を聴く時の態度である。この次はどんな「音」が出るかといふことばかり「期待」してゐる音楽の聴手は、結局、音楽を味ふ資格がないのと同様である。演劇に携はるものは、この覚悟がなくてはならぬ。「まあ、待て、この先が面白くなるのだ」といふ心持が、諸君にありはせぬか。いつまでたつても新劇が進歩しない原因は、これでほぼわかつたらう。
私は、可なり、「純粋演劇」の立場から説明をしすぎたやうだ。この文章を綴る動機がそこにあつたわけだが、これは決して、「芝居を面白くなくする」目的で云つたのではない。とかく、「純粋」などといふ言葉はさう聞え易いが、少くとも「演劇」にあつては、「純粋なもの」を見せる努力が一層芝居を「面白くする」最大要件であることを私は断言して憚らない。(一九三三・二)
底本:「岸田國士全集22」岩波
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