たは最初の陣地攻撃の時はどこにゐましたか?」
隊長の問ひに、私は、
「あのクリークから百五十米ぐらゐのところにゐました。霧でよくはわかりませんでしたが、敵が近いのには驚きました」
「うん、あの、クリークですがね、対岸の陣地をごらんでしたか? いよいよあれを渡らなければ突撃ができない。その時、船が向う岸に一艘つけてあるんです。立石といふ軍曹が、それをみて、上着を脱ぎすてゝ、ざんぶりと水の中へ飛び込みました。すると一人の兵隊も後につゞいた。二人で敵の猛射を浴びながら、悠々とその船をこつちへ引つぱつて来るぢやありませんか。かういふのがゐます」
「いゝですね。しかし、船でみんなが渡つたとすれば、随分危険なわけですね。よく損害がなくてすみましたね」
「さういふもんですよ。この喬野のクリークでも、あの橋を渡る時、○隊長の園田が先頭に立つて突つ込んで行くんです。橋の袂からはバリバリ撃つ。わたしは、その瞬間○隊長を殺しちやならんと思つた。で、うつかり先へ出てしまつたんですが、この時は、やられたかなと思つた。橋を渡つて、あの狭い通りを突きぬける時も、真正面から、弾丸を浴びました。中れば串ざしです。しかし、中らない。かうして生きてゐる。まつたく不思議なものです」
丁度そこへ、五又港の敵を撃ちすくめておいて、斎藤隊が主力をもつて引上げて来た。
「まあ、こゝで一服やり給へ」
と、小川隊長は、斎藤隊長の報告を聴いた後、そこへ敷いたアンペラの一隅に席を設けさせ、さて、今日の戦闘指揮についての情理をつくした講評をしはじめた。
私は、そこでその場を外すことにし、さつきの捕虜はどうしたかと思ひ、家の裏手に出てみると、敷石の角に二人とも尻をついて、ぼんやり考へ込んでゐるところであつた。
よくみると、一方はなるほどがつしりしたところがあるけれども、もう一方は、ひ弱さうな、体格劣等の若者である。どつちも服はびしよびしよに濡れ、殊に体格劣等の方は、唇を真つ青にして肩をふるはせてゐる。
言葉が通じるとしたら、私は、今、この捕虜たちに向つて何を云つたであらう?
およそ憐憫とか同情とかいふ感情が、この場ほど当てにならぬことはない。人間の本性が如何に強くても、戦場の生理は動くところへ動いて行かねばならぬ。文明とか、野蛮とかいふ言葉がうかつに使へない、どぎつく且つ微妙な秩序が、既におのづから戦ふものゝ精神のなかに形づくられてゐるのである。理窟は「勝つために」ではない。「生きるために」である。この絶対な理念を超えて、人生の真実はない。戦争の偉大な教訓は、たゞ厳粛なこの真実のすがたのなかにある。
一人の兵士が私に説明した。
「敵兵と良民とを区別せよと云はれますけれども、かうなると、調べやうがありません。なんとしても証拠があがらないんですから。時には、大勢の捕虜を並べておいて、住民の一人二人に、蔭で訊ねてみます。戸の節孔から何番目何番目といふ風に、撰り分けさせます。それでも当てにならないことがあります。前に帰順した敵の将校などを道案内に連れて来ると、さういふ時、並んでゐる捕虜の前で、不意に号令をかけさせてみます。『気をつけツ、敬礼ツ』とやるんです。根が兵隊なら、思はず知らず、不動の姿勢をとつて、手を挙げちまひますよ。はゝあ、あれだなと、見当がつくわけです」
私は、まさかとは思つたが、それも面白い話だから黙つて聴いてゐた。
「今日みたいに暇ができると、捕虜もゆつくり調べられますがね。前進前進となると、いちいちかまつちやゐられませんからね」
「それやさうだが、この捕虜は、いよいよ敵ときまれば連れて帰るんでせう?」
「こゝではさうしてをります」
さうしてもらひたいと思ひながら、私は、ふと「心を鬼にする」といふ日本語の誤解され易い表現について考へた。かゝる言葉使ひは思考の非論理性から来るものに違ひないけれども、日本的なヂェスチュアのなかに、往々、この種の思考の混乱が目立ち、そのために、思はざる誹謗を民族自体の上に加へられることがあるのである。重大な声明の如きでさへ、これを現代の思考法をもつてすれば、矛盾の指摘は極めて容易である。われわれは、人を殺すのに、心を鬼になどしなくてもいゝのである。必要な行為は、われわれ自身の判断と勇気とによつてすべてを為し得るものであり、却つて「心を鬼に」しなければならぬと思ふ「頭の弱さ」から、種々な無軌道的蛮行が生れないとも限らぬ。心情ゆたかなわが日本民族をして、この無慈悲な戦ひを飽くまで戦はしめよ、神慮何ぞわれになからんやである。戦争は文化の破壊だ、いや、建設だと、いろいろ論議する人もあるが、さう簡単にどつちだとも云へぬではないか。「文化」とは、お寺や学校のことではない。まして、全体主義とか東洋永遠の平和とかいふやうなことでもない。
フランス人はドイツの「文化」を指して、特に「クルトゥウル」とドイツ風に云ひ、自国の「キュルチュウル」と区別してゐる。その筆法で行くと、日本の「文化」も、恐らくそのうちに「Bounkwa」と呼ばれ、この一語がフランス語の辞書のなかに加へられるかも知れぬが、いつたいまあさういふものなのだと思ふ。
世界共通の「文化」といふやうなことを空想しても、それはたゞ、人類のすべてに通じ合ふといふほどの意味しかないのであつて、民族の優秀性は、その文化の高さをはかる尺度によつて違ひ、日本は日本の尺度を用ひて少しも差支へないのであるけれども、その尺度に狂ひがあるのはよろしくない。今や、その尺度を多少狂つたまゝ使つてゐる向きが多く、国内的には民衆を迷はせ、外に向つては日本を誤り伝へることになるおそれがある。「心を鬼にする」といふ言葉が、日本文化と関係があると云へばすこし無理なやうでもあるが、私の云はうとするところは、現代日本の一番大きな危機は、すべての現象に於て、象徴の本来の意味が忘れられてゐるといふことだ。比喩を「文字通りに」取らせやうとする不気味さを私は国内における百般の出来事のうちに感じるのである。このグロテスクな風俗は、ひとつの「文化」には違ひないけれども、よろしく戦争によつて破壊すべき文化だと思ふがどうであらう。
上これを行へば下これにならふつもりかどうか、ヂャアナリズムの大部分は、この調子を真似て、もつて戦時色とするのであるから、徒らに安価な流行語をふやすのみで「戦争万歳」と云はぬばかりの軽薄さが全紙に漲り、日本の真の表情は世界の玄関に伝はらないのである。他の民族をして日本怖るべしと感じさせるのは、決してわれわれが好戦的であることではない。たゞ戦に強ければいゝのだ。強い理由が明かなことで十分なのである。わが国民の比類なき象徴への愛を心なく汚さないやうにしたいものである。
夜行軍
この部落でも、桂班長は、例によつて住民を集めた。非常に集りがわるい。逃げたものが多いせいもあらうし、殊に、敵軍の本拠であつたゞけ、わが意を迎へるのに頑なところがあるのでもあらうか?
演説に対する反応も極めて冷やかなやうに思はれた。桂氏もそれを感じて、
「こゝの住民は性がよくない」と憤慨の面もちで、その旨を小川部隊長に報告してゐた。
「よし、そんなら、わたしがやつてみてやらう」
と、部隊長は自ら群集の前に立つた。
たつた今、あの凄じい勢ひで中国軍を蹴ちらした日軍の総大将は、そこへ姿を現はしたゞけで十分の睨みが利くわけであるが、そのうへ、噛んで含めるやうな平易な話し方で、日本軍がなんのために此処へ来たかを説明し、再び支那軍を寄せつけないために、附近の橋をみんな毀して行くから、いかにも不自由であらうが、当分の間、勝手にその橋を修復してはならぬと説ききかせ、最後に、この部落からは大分逃げたものがゐるやうだが、いつたい、どうしてお前たち兵隊でないものまでが逃げるのか、と問ひを発した。すると、群集の一人が答へた。
「これまでわれわれは、日本軍が攻めて来たら住民はみんな殺されると聞いてゐた。しかし、近頃、楊州から来たものゝ話に、決してそんなことはない、楊州にゐる日本の兵隊は実に立派な兵隊で、中国の良民に対してはどこまでも親切だとのことで、自分は安心してゐた。さういふことを知らないものがみんな先を争つて逃げたのだ」
時にこの答へはどういふ風にでもとれるが、それを云ふ当人がわりに朴訥な印象を与へたゝめに、小川部隊長は「うん、さうか」と大きく肯首き、部下をほめられた隊長の満悦をかくしきれぬ様子であつた。
昼食の支度ができ、われわれはまたアンペラの上に坐つて炊きたての飯を頬張つた。茹で卵などもできてゐて、なかなかの機敏さである。
私はかうしてゐる間にも、支那軍がなぜ逆襲をして来ないのか不思議に思はれた。もちろんこつちにも備へはあり、部落の外側は警戒を厳にしてあるのだが、軍隊の士気といふものはまた格別で、ほんたうに旗を捲いて逃げたら、さう易々と出直して来られるものではないのであらう。
さつきから、桂班長がぷりぷり怒つてゐる。
「じつにうるさい婆だ。あの捕虜の一人を自分の孫だから助けてくれと云ふのですが、そらその婆ですよ、またなにか愚図々々云ひに来た」
なるほど、一人の老婆が、入口に跪いて、手を合はせて拝みながら、しきりになにやら訴へてゐる。親が出て来たら赦すといふ掟はないのだから、この応対は誰にだつて満足にできる筈がない。流石の桂氏もこの婆さんを黙らせるか、自分で耳を塞ぐかするより手はないと見える。ところで、班長に手ごたへなしと見てか、婆さんは今度は、そのへんにゐる誰彼れを問はず、そつちへ顔を向けたものをつかまへて、泣訴哀願しはじめた。あまりよく喋るので、私は通訳を顧みて、
「どういふことを云ひたいのか、よく聴いてやつてみたまへ」
すると、かういふことが云ひたかつたのである。
「あれは私のたつた一人の孫で、両親もゐないし、平生手許において可愛がつてゐたものだが、軍隊には全く関係がないのだ。たゞ間違つて捕へられたのだから、どうか赦してやつてくれ。見れば服は濡れて、寒さにふるへてゐる。せめて着物を着かへさせてやりたい。あゝしてほうつておくと、それだけで死んでしまふだろう」
それを聞くには聞いたが、私は、なにも意見を云ふ資格はない。
そのうちに橋梁破壊を命ぜられた部隊が、作業を終つたといふ報告があり、小川部隊長は、更に隊長に向つて、破壊の程度をたしかめた。
「いかん。橋脚と橋礎をすつかり取り外さなければなんにもならん。苦力を集めてもつと徹底的にやれ。兵隊はもう疲れてゐるから、たゞ監視だけでよろしい」
部落の中央のクリークに架かつてゐるあの大きな橋のことであらう。
これはどうして大変な作業であると思ひながら、私ものこのこ現場へ出掛けて行つた。
両岸の橋の附け根――即ち橋礎は、堅固に煉瓦を積み上げた本格的の工事で、巾四米、長さ二十米、木造の橋ではあるが、橋脚の丸太は直径一尺に近いものと思はれ、一枚一枚の橋桁を動かすのに、二人ではむづかしいやうな代物である。
住民の男手がまた狩り出された。
鋸と綱を探しに、両隊が四方へ散つた。
一時間、二時間、三時間、この作業は何時果つべしとも思はれず、やがて日が傾き、愛菱湖の水面に靄が浮び、驢馬が悲しげな啼声を立てはじめる。
小川部隊長は、ひとつひとつ倒され、押し流されて行く巨きな材木を眼で追ひ、さつきの戦闘の、所謂死線を越える一瞬を髣髴と頭に浮べてゐるかのやうであつた。
「敵の一部は、そこに繋いであつた船に乗つて湖の上を逃げたんです。こつちが快速艇をもつてゐれば面白いんですがねえ。この前の討伐の時は、丁度この湖の岸沿ひに邵伯鎮といふところをやつたんですが、あの時は船を使ひました。手漕ぎのやつをね。ところが、向うは砲艦を二艘もつてゐましてね、すぐそばまでやつて来て、生意気に撃つぢやありませんか。それを見つけたこつちの砲兵がすぐ応戦したんですが、この海軍、これはまた、逃げ足の早いやつで……」
さういふ話を聞いてゐるうちに、うしろでまたぶつくさいふ声がしだした。さつきの老婆がま
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