の大熊が部隊長で頑張つてゐるといふ話なので、早速二人で訪ねて行つてみると、暫く見ぬ大熊は、これがと思ふほど変つてゐて、お互に年月の距りを痛感した。
「これが蒋介石のゐた部屋だぜ」
と、山崎が私に説明すると、
「いや、どうも宋美齢の方らしいんだ」
謹厳な大熊はさう云つて笑つた。
こゝで、私は二人の話を交々聴き、それぞれの部下が駐屯してゐる小警備地区の状況を詳しく知ることができた。そして、是非とも楊州に行かうと決心したのである。
その晩は山崎部隊長の宿舎で夕食のご馳走になり、長々と昔話をし、最近留守宅から届いたといふ甘味の数々を私も遠慮なく味はつた。
翌朝、九時四十五分、南京発上海行の急行に乗る。
一昨日宿でちよつと話をした三田文学派遣の従軍記者池田みち子女史が、誰かを送つて来た序に私も送つてくれる。私が楊州といふところへ行くのだといふと、自分も行つてみたいと云ふ。あとからおいでなさい、道はかうかうと教へておいたが、妙齢の女性の一人旅は無理にきまつてゐる。
向ひ側の席についた一青年将校は、私たちの話を耳に挟んだものと見え、
「楊州へ行かれますか。自分は○○地区警備隊のものであります。本部勤めで連絡のためこれから上海へ参りますが、二三日中に帰ります。何れあちらでお目にかゝります」
名刺には陸軍歩兵○尉三輪光広とある。そして、奇縁と云はうか、この将校の連れてゐる当番が、自ら名乗るところによると、私は不幸にしてまだお目にかゝつたことはないが、同業渋川君の令弟にあたる、山崎重久といふインテリらしい青年であつた。
鎮江へ着いたのが十一時、こゝで私は汽車を降りねばならぬ。揚子江の対岸の六※[#「土へん+于」、第4水準2−4−61]へ渡るために、これから碇泊場へ行くのだが、駅の改札口を出ると、私はしばらく茫然と立ちすくんだ。自動車の影は一台もみえず、碇泊場までは一里近くあるといふ。荷物さへなければ歩くこともできるがと、そのへんを見廻してゐると、兵站の腕章をつけた一将校が運よく通りかゝつた。
私はこゝで兵站部の厄介になつた。昼食をすまし、荷物の一部を預け、車で碇泊場へ送つてもらふ。宮崎勇治氏の好意ある計ひであつた。
埠頭には、もう××汽船の旗が樹つてをり、その連絡船がいま出ようとしてゐるところであつた。
警備隊本部
小蒸汽は船員も支那人、乗客も大部分支那人で、わづか四五名の日本人が軽装で大きな郵便物の袋を提げて乗込んでゐた。
引率者たる主計○尉が、話をしてみると、やはり○○警備隊へ帰るのだといふ。ところで、こゝでもまた、それらの兵士の一人から、私は「先生」と呼びかけられ、それが明大文芸科で教へた生徒であつたのは意外でもあり、うれしくもあつた。かういふ時の道づれは有りがたいものだ。匪賊討伐の話、楊州の街の様子、米国教会の日曜学校で反日宣伝をした事実など聴く。
船は四十分で対岸に着く。こゝから楊州行のバスが出る。一台きりのバスといふのが、世にも憐れなしろもので、ほんとに動き出すのかと気が気でないほどであつた。しかも、船から降りた客がみんな一度に来るのだから、たちまち超満員で、窓の外へぶらさがるもの、エンヂンの蓋の上へ腰かけるものなどがあり、それでも兵士たちは起ちあがつて老人に席を譲るといふ床しさをみせてゐた。
沿道の耕地は洪水のため殆ど水浸しであつた。盥に乗つて稲の穂を刈つてゐる農民の姿がみえる。なるほど、楊州の名はこゝから来たのかと思はれるほど、楊柳が多い。そして、今までにみた中支のどの部分とも違つてゐることは、普通の恰好をした住民が、道の上を往つたり来たりしてゐることである。水害を免れたらしい田畑には、若い女たちの野良姿も目につき、川べりで子供を遊ばせながら、煙管を啣へた老人がわれわれのバスを見送つてゐる。
城外に近づくと、そのあたり一帯は墓地の連続である。楊州の墓参風景は支那名物のひとつだと聞いてゐたが、なるほどこの土地の広がりを、群集と花と線香の煙が埋めたとしたら、それは一種の奇観に相違ない。
城門を潜ると、支那人はみんなおろされた。衛兵の取調べを受けることになつてゐるのである。
バスは警備隊本部の前までわれわれを運んでくれる。城門からこゝへ来るまでの広い通りは、近年新しく広げられた道で、楊州唯一の自動車道路ださうである。両側には店舗は殆どなく、学校、兵営、官舎、その他、医者の看板など出した住宅風の建物が並んでゐる。
警備隊本部は、旧旅団長官舎だといふことだが、小ぢんまりした洋風のヴィラで、前庭に面したホールへ私は先づ通された。
部隊長は今会議中だからしばらく待つようにとのこと、本部附の兵士たちが、眼の前でさつきの袋を開け、郵便物を撰り分ける表情の面白さを飽かず眺めてゐた。
副官が「どうぞこちらへ」と私を二階の一室に案内した。
部隊長小川伊佐雄氏は、私がはるばるこの土地へ来たことを心から悦んでくれた。新聞記者も慰問団もなにも来たことはないといふ話であつた。
こゝばかりではない、さういふところも随分あるであらう。しかし、私は運が好かつたのである。誰でもかううまく此処へ辿りつけるわけではない。
「鎮江から河を渡つて来るといふことは、よほど臆劫なことゝみえますな」
「それはさうかも知れませんね。詳しく様子を聞いたうへでなければ、ちよつと決心がつきますまい」
「いや、揚子江の北はまだ危いといふことになつてゐますから……」
「匪賊は相当にをりませうな」
「何れ詳しくお話をします。が今も実は、部下を集めて会議をしてゐたんですが、近々、やゝ大仕掛けな討伐をやらうと思つてゐます。情報も可なりあがつてゐますし、もういい時分だと思ひますから……」
部隊長は隣室に集つてゐる部下の将校たちをこの席へ呼び寄せ、私に紹介した。
討伐の計画は極秘のうちに進められるに拘はらず、何時の間にか敵に知れてしまふらしい。スパイ網がかくの如く張られてゐるとは想像もつかないくらゐである。もちろん、その裏をかく手も考へられてゐるし、敵に十分の用意をさせて、一挙に殲滅的効果をあげることもある。
一人の将校は急に起ち上つて部隊長と私とを等分に見比べながら云つた。
「先日の討伐で戦死しました○○のことを、ひとつ文芸部の方に書いていたゞきたいのでありますが……」
これらの将校たちは、何れも楊州からほど遠い敵前の部落に駐屯して、守備の任務についてゐるのであつて、小数の部下と共に、有力な敵を制圧し、住民を手なづけ、情報を蒐集し、農村に於ける自治体の速かな結成を促す重大な力となつてゐるのである。
三輪○尉の部屋が明いてゐるので、私は、その夜、本部に泊めてもらふことにした。
すると翌日、小川部隊長は私に匪賊討伐を実際に見たければ見せてやるがと云ふ。それは、今夜十二時に出発して、東北方約二十キロの喬野といふところにある敵の陣地を襲ふのだ。本部と一緒にゐればまづ危険はないと思ふし、馬の用意もさせておくからと、ごく気軽に勧められて、私は、是非行きたいと答へた。
そのうちに××の桂班長も打合せに来た。
この前の討伐にやはりついて行つて、部隊長と一緒に弾丸のなかを潜つた話などして聴かせる。
「宣撫といふのは、そんなに危険なところまで行くんですか?」
「いや、さうまでしなくてもいゝですが、この隊長が連れて行かんと承知せんのでしてね。しかし、占領後すぐといふのが一番効き目があるんです。住民の気持がまだ動揺してますからな。なに、どうせ、国家に捧げた命です。覚悟はしてゐます。たゞ、われわれは仕事の性質が違ふだけです」
桂五郎氏は、満鉄の副参事とかをしてゐた人で、特に事変中軍の嘱託として中支へ派遣されたのださうである。
夕方になつて、出発が午前三時に変更された。副官の注意で私は一と息眠ることにした。
払暁戦
午前二時半起床。本部附の平野氏が私に拳銃を持つてゐるかと問ふので、持つてゐないと答へると、それではこれを貸してあげると云つて誰かのを一挺捜して来てくれる。私はその必要はないと思つたが、折角の好意であるから腰へぶらさげて行くことにする。
非戦闘員である以上、戦闘に参加するのではないといふことを飽くまでも考へなければならぬ。たゞ、私は、敵の退却したあと、そのへんの住民たちが如何なる態度をもつてわが軍を迎へるか、また、それらの住民たちに対して、わが軍がどんな処置をとるかといふことを、現実に目撃したいのである。
なほ、そのうへ、情況がゆるせば、所謂、彼等の戦闘能力、殊に、最も統制のとれてゐるらしいこの方面の残敵の抵抗度を素人の眼ながらほゞ観察しておきたいといふのが、この討匪行に加はる私の目的であつた。
そこで、参考のために、当日の作戦命令をみせてもらふ。
○○地区○○部命令
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一、邵伯鎮北方敵正規軍ハ近日来兵力ヲ増加シ喬野(邵伯鎮東方六吉)陳家甸附近ニ盛ニ陣地ヲ構築シアリ
其状況並ニ地形別紙攻撃計画要因ノ如シ
二、地区隊ハ楊州西北方地区討伐ニ先タチ該敵ヲ殲滅セントス
攻撃計画概要別紙要図ノ如シ
三、奈良○尉ハ部下歩兵○○隊、邵伯鎮予備隊ノ歩兵○○隊、在○○機関銃○隊大隊砲○隊(○○隊欠)ヲ併セ指揮シ右翼隊トナリ十月二十二日六時三十分渡河シ別紙要図ノ如ク陳家甸ノ敵ヲ背後ヨリ急襲シ陳家甸局地ニ於テ其ノ増援隊ヲ併セ一挙殲滅スヘシ
堀内軍医並ニ○号無線○機ヲ属ス
四、斎藤○尉ハ部下歩兵○○隊半機関銃○○隊大隊砲○○隊ヲ併セ指揮シ左翼隊トナリ十月二十二日六時三十分渡河シ各一部ヲ以テ速カニ載家渡及喬野橋梁ヲ占領シ退路ヲ遮断セシムルト共ニ主力ヲ以テ将軍※[#「广+苗」、第4水準2−12−7]局地内ノ敵ヲ捕捉殲滅シタル後喬野ノ敵ヲ攻撃撃滅スヘシ
久田軍医及○号無線○機ヲ属ス
五、討伐後五又港――喬野道及喬野附近全橋梁及陣地ハ完全ニ破壊シ敵ヲシテ喬野以南地区ニ再ビ出動シ得サラシムルヲ要ス
六、○砲兵第○○隊ヲ指揮シ十月二十一日夜半「トラツク」ニ依リ楊州出発軍工路守備隊附近ニ至リ陣地ヲ占領シ七時三十分以後命ニ応シ喬野陣地ヲ射撃シ得ルノ準備ニ在ルヘシ
七、合言葉○○――○○
標識 国旗ヲ高ク左右ニ振ル
要スレハ喇叭「大熊部隊」
夜間ハ懐中電燈ヲ以テ円ヲ描ク
八、各部隊ハ通例ノ弾薬ノ外朝昼食携帯口糧一食分ヲ携行スヘシ
九、予ハ左翼隊ト行動ヲ共ニス
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]○○地区○○部隊長
以上の作戦命令により各部隊それぞれ行動を開始した。
偵察による敵の兵力は、推測し得る増援隊の兵力を除いても、優に我れに倍するものであることがわかつてゐた。
私はこの大胆な攻撃計画が、小川部隊長の自信の発露とみて、その成功を疑はなかつた。
やつと服装を整へて二階のヴェランダに出た。
月明に照し出された楊州の街は、静かに眠つてゐる。寒いといふほどではないが、夜気しんしんとして身に沁み、拍車をつけた靴が重い。
副官は、その当番の今井一等兵を私のために特に本部一行のうちに加へてくれる。
今井君は、偶然、東京の私の住ひを知つてゐるといふ。わけを訊くとその筈である。伯父さんが西荻窪の金物商で、同君はその店でずつと働いてゐた青年なのである。
「弁当と鉄兜は私が持つて参りますから」
「どうもありがたう」
小川隊長は、私に、寒ければ自分のマントを貸さうと云つてくれたが、私は内地を出る時義弟の吉田大佐から古い将校マントを貰ひ受けて来てゐるので、それを出して着た。
本部の前には自動車が用意されてゐて、私は隊長と同乗を命ぜられた。桂班長も同じ車であつた。
城門を出ると、邵伯鎮に通ずる一直線の軍工路が続いてゐる。こゝにも所謂国民政府の軍事施設が及んでゐるのである。途中、大きなクリークにかゝつてゐる立派な橋を二つ越えた。いづれもわが軍の歩哨が立つてをり、隊長の車はその前を徐行して親しく敬礼を受けるやうになつてゐる。
「異状ありません」
歩哨の声
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