口へはひる時にはおれが連れてつてやらう」
 翌日、われわれの一行が船へ乗り込むと、そこには憲兵が○名ちやんと控へてゐた。「ご一緒に参ります」といふ。
 船は「陸軍の軍艦」と呼ばれる○○○船で揚子江作戦の重要な役割をつとめてゐる特殊部隊に属するものであつた。部隊長を囲んでわれわれは甲板に集つた。幕僚が陸軍としての船舶運用に関して興味のある話を聞かせてくれる。
 全国から徴発した民間の漁船が、今度の戦さでどんなに役に立ち、乗組の漁夫たちも、兵士と同様、勇んで困難な仕事に従つてゐることが如何に見あげたものであるかといふことを知り、これも是非国民は知つてゐなければならぬことだと思つた。
 まだ砲声がすぐそこで聞える武穴に一旦上陸、○○部隊本部で昼食のご馳走になり、揮毫攻めにあひ、われわれはやつと二時すぎに馬頭へ送られた。
 前線からの迎ひの自動車は、さつき来たには来たが、何処に待つてゐるのかわからぬといふので、案内の松岡中尉が八方へ電話をかける。夕方になつて、やつと、一時まで待つたが一行の姿が見えないので引上げたといふことがわかつた。それと同時に、前夜既に、隣接部隊が渡河を決行し、○○部隊は予定の作戦を変更するらしく、それでも、ともかく明朝も一度使ひの車を出すといふので、われわれはその夜、馬頭に一泊することを決めた。ところが、宿舎にあてるべき適当な家がなく、露営をしようといふ話も出たが、結局碇泊中の船の一つに交渉して、空いてゐるキャビンを提供してもらふことにし、船へ行つてみると、船底の三等室しかない。なんでも結構といふわけで、やつと背中の荷物をおろしてからだを横にすると、私は、今朝からの歯痛の堪へ難いのが遂にその絶頂に達した。ミグレニンは飲み続けに飲んでゐるのだが、間をおいて襲つてくる激しい痛みに、顔はしびれ、眼からひとりでに涙が流れでる。頭を抱へてぢつと我慢しようとしたが、からだが自然によぢれて、枕のありかさへわからなくなる。声を出すまいと思ふから、呼吸がつまる。こんな歯の痛みは生れて初めてゞある。甲板へそつと上つてみた。あちこちに水溜りがあるのだけれどもそれを除けて歩く余裕がない、やつと手摺に縋つて、空を見あげた。満月が皎々と照り、江上の船はいづれも明りを消して、黒々と沈黙の影を浮べてゐる。
 夜は長かつた。
 翌朝、陸へあがつて、早速兵站の軍医さんに薬を塗つてもらふ。自分一人のことをこんなにくどくどと書いたのは、別に読者の同情を乞ふつもりではなく、戦場での歯痛はかくの如く異常なものであり、その原因についていろいろ考へるところがあつたからである。
 道ばたへ腰をおろしてゐると、向ふから武装した三人の兵隊がいくぶん足を曳きずるやうにして歩いて来た。落伍兵かなと思つてゐると、そのうちの一人が、不意に、「先生」と叫んで私のそばへ駈け寄つて来た。
「明大文芸科の卒業生浅見であります。負傷して病院へはひつてをりましたが、やつとなほつて、これからまた前線の原隊へ帰るところです。先生はお元気ですか」
 さう云はれゝばさうにちがひない。私は思はず胸をつまらせ、
「さうか、こんなところにゐたのか。怪我はどこだ」
「胸であります」
「大丈夫か?」
「はあ」
 と云つて、彼は背嚢をゆすりあげた。
 これからどこまで歩いて行くのか? 汗と埃にまみれたこの青年の姿を私は忘れることはできない。
「しつかりやつてくれ」
 心からの感謝をこめて、私は、たゞ一と言激励の言葉を与へた。
 痛みはどうやら鎮まつたが、全身の疲労甚だしく、今日是非前へ出なければならぬといふわけでもなかつたので、私は、一行と別れて先に九江へ帰ることにした。

 私は、このへんで団体行動を打ち切つて、単独に見たいところを見て歩かうといふ気になり、その計画にとりかゝつた。
 第一線部隊の何れかについて漢口に向ふといふ案は、先づ、向ふ一ヶ月の暇が必要であらう。私にその暇はない。
 九江に腰をおちつけて、復興建設の過程を詳しく見るといふ案については、これは相当時間がかゝるし、殊に、自由に歩きまはる脚がなくては駄目である。結局、こんな大きな街はどうにもならぬ。南京なら車は勝手に使へるが、個人を対手に調査や見学の便宜を計つてくれるやうな機関が何処にもない。殊に今のところ、軍隊と民衆との接触面が比較的日常の姿で眼に映り易い場所を一番私としては選びたいのである。その軍隊はまた、敵のゲリラ戦術なるものに対して如何なる方策を取りつゝあるかといふことも是非この眼で見ておきたい。
 そんなことを考へながら、南京への便を待つことにした。
 五十嵐部隊長の好意で、時々自動車を差向けてもらひ、一行の誰彼を誘つて、あちこちを見て歩いた。そのうち、やはり、アメリカ宣教師の経営する女学校と産科の病院が最も印象に残つた。なんといふのであらう。かゝる施設が外国人の手によつてなされてゐるといふ事実は、日本内地でさへその例が多々あるのであつて、今更驚くべきことでもないが、それよりも寧ろ、彼等の、この支那大陸に於けるひとつの「生き方」について、私は日本人全体の注意を喚起したいと思ふ。
 女学校は、その建物と云ひ、庭園と云ひ、まことに西洋的な生活の快適さを示すものであり、文化人の趣味と実力を誇るが如く瀟洒たる一廓を形づくつてゐる。中年の女教師が二人われわれを導いて校舎と住宅を見せてくれる。生徒の姿がちらちら廊下や教室の戸口に現はれるが、すぐに引つ込んでしまふ。先生の一人は、庭の小径を歩きながら、私に云ふ。
「生徒は日本軍がこの土地へはひつて来て以来、しばらくは怖がつて落ちつきがありませんでしたが、近頃では大分慣れて来た様子です」
「父兄はみな九江にゐるのか」
 といふ私の問ひに、
「みなではない。なかには、子供をおいて漢口へ行つたものもある」
 と答へた。それから、庭の一隅の竹藪が空へ伸びて、支那寺院の塔の遠望と面白い調和を見せてゐるのを指さし、
「こゝへわざわざ竹を植ゑさせてみたのですが、どうでせう?」
 アメリカ・インテリ婦人の典型をそこに見出して私は思はず微笑した。
「なかなか結構な思ひつきです」
 その先生は、事変がおさまつたら、一度日本へ行つてみたいとも云つた。
 産科の病院は、ドクトルが留守で、細君が応接間へわれわれを通した。賀川豊彦氏の著書などが卓子の上に出してあつた。
 病室は殆ど空いてゐた。支那人の看護婦が治療室の隅にかたまつて、ひそひそ話をしてゐた。いくつかの医局の扉に、ローマ字で支那人の名前を書いた札が貼つてある。支那人の医者が主任をしてゐるのかと思つたら、それはみなそれぞれの医局を寄附した支那人の名前であることがわかつた。医局を寄附するといふのはちよつと私には耳新しい方法で、さういふ慈善家を支那に作りだしたのは、たしかにアメリカ式文化宣伝の結果に違ひないのである。
 男の宣教師が一人そこへ訪ねて来て、「奥さん、ちよつと」と夫人を戸の外へ呼び出した。フロックコートを着て前屈みに歩くところ、不確な視線で揉み手をする恰好など、職業的なある型にはまつてゐた。これが、先日名前を聞いた親日米人であつた。
 甘棠湖に沿つた小高い丘は、紀念堂林園といふ公園になつてゐる。丘の頂上に、国民革命軍第五師陣亡将士紀念塔といふのが建つてをり、そこからは九江の街が広く見渡せる。植ゑて間もない樹が、何れも馬を繋ぐために背丈ほどのところで切られてゐる。かういふところばかり見て廻つてゐると、なにも見ないのとおなじになるといふ気がして来た。
 宿舎のヴェランダから暮れて行く南方の空を眺めてゐると、廬山の峰々を掠めて、絶え間なく飛行機が去来する。なかには、頭のすぐ上を低く飛んで行くのもある。水面で魚をねらつてゐた鳶の群が悠々とその後へ舞ひあがつて、ひとくさり空中戦の真似を演じる。
 瑞昌南方の山岳地帯で、わが○○部隊が敵の包囲を受け、弾薬糧食を空中から投下してゐるのだといふ噂が伝はつて来る。
 私の胸はしめつけられるやうだつた。その晩は、いつまでも眠つかれなかつた。

     楊州へ

 十月十七日、私は連絡機の便を得て、南京へ飛んだ。
 こゝで私はいゝ通訳をみつけて小学校の先生たちと少し話をしてみたいと思つたが、××××は丁度忙しい最中で、その係りの人にも会ふことができず、私は諦めて地図を頼りに街をぶらぶら歩きまはつた。しばらくの間に南京も目立つて賑やかになつたやうだ。大通りの真ん中で、支那の女同志がつかみ合ひの喧嘩をし、一人の男がその中へ割つてはひつて一方をなだめすかしてゐる光景さへ目撃することができた。もちろん人だかりがしてゐる。なかには薄笑ひを浮べて、またはじまつたといふやうな顔をしてゐるものもある。私はそれでたいがい見当がついた。実直さうな四十男が、その女房に違ひない頬つぺたから血をたらしてゐる若くも美しくもない女の手をぐいぐいと引つ張る。女は地団太を踏んで応じない。大声で泣き喚く。片手を捲きつけた道傍の並木の枝がばさばさと揺れた。
 この戦争はどうならうとかまはないだけに見てゐて気が楽だ。しかし、こんなところで暇をつぶすのは勿体ないから、いゝ加減に切り上げよう。
 光華門のそばに日本人経営の相当な支那料理屋があるといふので昼食をしに行つてみる。
 サーヴィス・ガールは十六、七の支那姑娘だが、いくたりも側へ寄つて来て勝手に卓子の上の南京豆を噛り、日本の流行歌を得意げに口吟むので聊か興を殺がれた。料理も評判ほどでなく、第一材料も乏しいとみえて、献立が貧弱であつた。南京ではまだ支那人の生活が形を成してゐないといふ感じがした。

 この前訪ねようとしてつい暇がなかつた同期生山崎のことを思ひだす。宿で調べてもらつたが、どうしても居所がわからない。部隊長の居所がどうしてわからないのかと思ひ、自分で心当りを探すことにした。
 ところが、部隊本部へ行つたらすぐにわかつた。人力を走らせてゐると、偶然、向ふから来る自動車に大宅壮一君が乗つてゐて、訪ねるところがあるなら送つて行つてやらうと云つてくれる。親切をありがたく受けた。
 部隊本部で、山崎の迎ひが来るまで、幕僚の三国氏に会つて、いろいろ警備に関する話を聴く。八月二十三日から十月十日まで、同隊の行なつた戦闘回数百五十九回、敵の損害は遺棄死体だけで一八七四、捕虜二八九、わが方の損害、戦死五九(内将校二)、負傷八四といふことであつた。なほ、南京蕪湖地区だけで、既に帰順兵千二百を出し、その他に於ても討伐の効果は着々あがつてゐるとのことである。敵の配備はこゝに詳しく書くことは許されぬが、大体、蕪湖南側に一万、※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]陽の周囲に一万、何れも正規軍である。所謂匪賊道と称する彼等の専用道路があつて、その移動は、昼休夜行の原則を守り、中央の指令によつて道路橋梁の破壊、わが軍の後方攪乱を企図してゐる。避難民の復帰状態は大体良好であるが、九月二十日頃より、青年男女の数が著しく増したやうである。民衆の向背はこれによつて略ぼ判断の基準を与へられる。皇軍の軍紀粛正であるといふことが何よりも彼等の信頼を増し、ある地区の守備隊長が交迭した際の如き、村民が泣いて別れを惜しんだといふ例もある。道路愛護の運動も金壇・※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]陽間には既にその組織もでき、治安上大なる効果を挙げつゝある。敵は橋梁などを破壊する毎に必ず宣伝ビラを撒いて行く。こつちは、新しい占領地に野菜の種を蒔く。部隊の自給自足は今から心掛けねばならぬからである。
 三国氏のこの話は、私にとつて非常な参考になつた。いろいろ土地の名前も出たが、何処がよからうといふ相談はわざとしなかつた。
 そのうちに、山崎が、自分で用事の序があつたからと云ふので出掛けて来た。今日おろしたばかりの新しい車で、彼は私をその部隊の兵舎に連れて行つてくれた。支那軍の兵営をそのまゝ使つてゐるのだから、すべてが平時の落ちつきを保つてゐる。部隊長室でしばらく話をしてゐると、この隣りが有名な軍官学校で、その跡へやはり同期
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