尼さんは相当商売上手である。この孤児院についての説明書をまた写してみる。
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名称――ノートルダム・デ・ザンジュ孤児院。一八八七年創立。
職員其他――教母一四、男女傭人六〇。
孤児収容定員三〇〇、小学課程及刺繍並にレース製作指導。
乳児四〇〇、田舎の乳母に養育を託す。
卒業生のために刺繍並にレースの賃仕事を授く。
小学校生徒定員一六〇。
経費年額三五〇〇〇ドル。
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かういふ風な孤児院が、支那全土を通じてたしか八十あるとその時聞いたが、帰りに上海で本部といふのに寄つてみると、各地方の孤児院から集まつて来るレースが、こゝで飛ぶやうに売れるといふ話であつた。
丁度授業が終つて教場から出て来る八九歳の少女たちの一群に廊下で行き会ふ。
「みんなあんまり血色がよくありませんね。食べ物などは十分手にはいりますか?」
私は訊ねた。すると院長はちよつと悄げた風をして、
「そんなに蒼い顔をしてゐますか? 見馴れてゐるとつい……」
と云つて、賄のことをくどくどと説明し、米はなんとかなるが、生野菜が近頃は欠乏して、と溜息をついてみせる。
「尤も、生れながら虚弱な体質の子供が多いんでせうからね」
と、私は慰めておいた。
九江の街は日に日に面目をあらためて行つた。日本人の店が次ぎ次ぎに出来る。主に飲食店であるが、それはまづ順序としてさうであらう。
難民区を訪れると、その度毎に活気を呈し、道傍で商ふ雑多な品物の数も質も豊富になつて行くのが目立つ。誰が何処から集めて来るのかと思ふ。彼等は、どんな場所でも、その置かれた場所に根をおろすと云はれてゐるが、さういふ力がこゝでもひしひしと私に感じられたのである。
ある日、××××でまだ届出をしてゐない支那人の調査をした。ぶらりとこの街へ入り込んで来て勝手にそこ此処へ尻を落ちつけてゐる連中を一斉に掻き集めた。事務所の前庭は忽ち浮浪者の海と化したが、老人と子供が多いことは云ふまでもない。×××の訓示があるといふので、係りのものが彼等を適当な位置に纏めようと骨を折つてゐる。支那人の世話役が声を張りあげる。これがどうして大へんな仕事である。袖を引つぱつたり、肩を小突いたりするくらゐでは追つゝかない。動かうとしない奴は足で蹴る。さうなると、物騒な空気が漲つて来る。何処にゐたら安全なのか、ちよつとわからない瞬間がある。乳呑児を抱へた母親は、背中を丸めて人かげにかくれる。年寄り夫婦は互に手を引きあつてはぐれまいとする。まつたくさういふ懼れがないではない。彼等のうちの幾組かは数ヶ月のあひだ離ればなれになつてゐて、今日やつと廻り合つたのかも知れないのである。
騒然たる一つ時が過ぎて、×××の訓示がはじまつた。通訳は日本人であつたが、×××の力強い言葉の調子を伝へる工夫をしてゐた。訓示の内容は大体かうであつた。
「お前たちは戦争のおかげで苦しい目に遭ひ、まことに気の毒であるが、かういふ戦争を惹き起したのは日本ではなくて、お前たちの国の軍隊だ。蒋介石が共産党と手を組んで日本軍に刃向ふといふことは、お前たちにとつてこの上もない不幸なことだ。日本軍は、すぐにでもお前たちを事変前の状態に戻してやりたいが、今はさういふわけにいかん。しばらく辛抱せよ。われわれは、先づ戦争の目的を達したうへで、お前たちのためにできるだけのことをしてやる。日本軍は、良民に対しては決して危害を加へるものではない。その代り、当分の間、一定の地域以外に勝手に出てはならん。お前たちが一日も早く安居楽業のできるやうに、われわれは全力を尽してゐるのである。安心してその時期を待て。これから、すべてお前たちの世話は難民整理委員会がしてくれる筈だ。よくその規則を守つて間違ひのないやうにせよ。万一規則を破るものがあつたら、その時こそ容赦はせんから、そのつもりでゐよ」
この訓示の途中、二度ばかり、あちこちで「好好《ハオハオ》」といふ掛声が聞え、それと同時に肩をゆすり、大きくうなづき、ぱッと笑顔を見せるものが大分あつた。やれやれと胸を撫でおろしもしたであらうが、一面、この活溌な群集の表情に私は驚くべき彼等の社交性をみた。
それからもうひとつ、×××の姿が玄関の入口に現はれた時、事務所の給仕らしい支那の一少年が、なにやら大声に群集に向つて叫んだ。「脱帽」とやつたのである。これは愛嬌であつた。
これらの難民はさしあたり食ふ道を求めなければならぬ。ある者は幾分の貯へで難民区内にさゝやかな店を出すものもある。厳重な交通の制限があるに拘はらず、彼等は、あらゆる方法で附近の農村から物資を集めて来るらしい。
兵站病院で雑役婦を募集したところ、今迄姿をみせなかつた若い女が続々と現れた。しかし汚物の始末だけはいやがつてしない。われわれは苦力ではないといふのださうである。しかし、日本の女が自分でそれをやつてみせると、しかたがなしにやるやうになつたといふのである。北京ではじめて女事務員を雇つたある日本人が、手紙を出して来いと命じたところ、そんな仕事は女のすることぢやないと云つて突つ刎ねられたといふ話を嘗て聞いた。日本人は第一に支那女性のお気に入らぬところがありさうである。
雨がやみ、廬山が見えだした。なるほど嶮峻な峰の連続である。頂に近いところに、白く人家らしいものが見える。外国人の別荘であらう。あの谷間々々には残敵が巣食つてゐるのだと聞いても、別にもう驚かない。
軍報道部松岡中尉の誘導で、星子方面の第一線視察に赴く。隘口街攻撃の火蓋を切つてゐる○○部隊の本部から、やゝ前方の高地へ出た。味方の砲兵陣地がすぐ眼の下で、しかも砲列は高地を前後に挟んだ形になつてをり、自然、弾丸の唸りを頭上に聞くわけだから、最初の一発は、敵の弾丸が飛んで来たのかと思つた。
山腹の目標に中つて炸裂するわが砲弾の威力は物凄く思はれたが、敵の姿はむろん見えず、味方の歩兵も何処をどう動いてゐるのか見分けがつかぬ。たゞ部隊本部に通ずる道路上、並にその両側の、人と馬と車の描きだす静動相半ばする風景は、何ものにも譬へ難い息づまるやうな戦線の呼吸を感じさせる。混乱のなかの秩序、休息のなかの緊張、絶望のなかの生命がそこに見出される。身を以てこれを描き得たのが火野葦平氏であらう。
時々迫撃砲などそこから撃ちだすといふ側背の廬山は、例の飯塚部隊長戦死の跡といふ山襞をむき出して、右手前方に伸び、その先端の金輪峰が晴れた秋空にそゝり立つてゐる。秋空とは云へ、真夏のやうな太陽が照りつけるなかに、われわれは立ち、流れる汗を拭く気にもならぬ。昼食の時間になり、小松の蔭に腰をおろして飯盒の弁当をつゝいた。何処からかビールとサイダアが運ばれる。かういふ主客転倒のやうな状態が時々われわれを途方に暮れさせた。将兵の労苦をちと味はせてやれといふやうな意識はわれわれを迎へる前線の何処にも感じられない。これは当り前のことのやうだが、特筆大書すべきことである。日本人のほんたうの姿がそれなのである。彼等の真の労苦は、われわれの如何なる想像をも絶したところにあり、将兵おのおのゝ精神と肉体とが、言葉なくしてそれに堪へ、それに打ち克ち、人生至高の歴史をつくりだすのである。「今日は生きてゐた」といふ感慨の前に、われわれは頭を垂れる。そしてまた、「明日はどうなるかわからぬ」といふ覚悟を身に沁みて感じ得るものでなければ、戦ふ人々の心理に深く入ることは許されぬと思ふ。
帰りのトラックで廬山の麓を通る時、運転手の兵隊が、この辺は危いところだから全速力を出すといふ。軍官学校の広い建物が、山の中腹に整然たる俯瞰図をみせてゐる。道傍の樹の根に倚りかゝつたまゝ息絶えてゐる敵兵の屍体が目につく。
その日は何事もなかつたが、翌日そこを通りかゝつた一台のトラックが、果して敵の襲撃を受けたさうである。「危い」といふのはさういふことなのである。
一日、附近の飛行場をみなで訪れた。希望者は○○に乗せてやる、といふことであつた。人数に制限があるかも知れぬとあつて、私は若し席が空いてゐたらといふぐらゐの気持で出かけて行つた。N部隊長は、これまた偶然、私と士官学校が同期で、「やあ、やあ」といふやうなわけであつた。もうちやんと打合せができてゐたものとみえ、部隊長は、われわれの一人々々をそれぞれ○○づつに割り当て、有無を云はせず、「さあ、乗れ」といふあんばい式で、至極あつさり、この千載一遇の爆撃行に連れて行つた。敵は徳安から退却を開始したらしく、兵力一万の大縦隊を永修、※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]津街附近の上空から邀へ撃つといふ痛快な作戦である。
「たいがい大丈夫と思ふが、万一の場合は、部隊長の指図に従へばよろしい」
指揮官らしい口調で、N部隊長はわれわれをちよつと変な気持にさせておいて、部下の各○長に出動命令を下す。
私はたゞ、満身これ機械とも云ふべきあの胴体の中を、這ひまわつてゐた。
松原中尉が、ひと通り図上で進路を説明してくれる。今井軍曹は「あれが徳安です」「あれが※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]陽湖」と機体の下腹部の窓から私にその方向を指してみせる。なにしろその窓は、地上数千米のところにぽかりと下向きに明いた吹きぬけの孔で、のぞいて見るのになかなか決心のいるやうな窓であつたが、私はそのへんのなにやらわからぬ出つ張りを手探りに掴んでからだを乗り出した。「見えるでせう」「見えます、敵の陣地も見えます」「橋梁がみんな破壊されてゐるでせう。われわれがやつたんです」「はあ、これは大変な防禦工事だ。山といふ山は鉢巻をしてゐる。」
爆撃用意の無線命令が部隊長から発せられた。松原中尉は、私に眼で合図をして、片手を釦の方へ伸ばした。恐らく複雑な計算をしてゐるのであらう。
「ごらんなさい、ごらんなさい」
今井軍曹の声に、私は、もう一度、首を突き出さうとした。気がつくと、私が無意識に掴まつてゐたのは、物々しい機銃の脚であつた。こんなところにも、こんなものがあるのかと思ひながら、遥か眼の下の空中に瞳を据ゑると、見えた見えた、編隊の各機から振り落された黒い細長い滴が、横倒しのまゝ大きな弧を描いて降つて行く。そして、それらが何者かの手で手繰り寄せられるやうに、次第に纏つた束になり、掌大に見える地上の一部落の上に吸ひ込まれると見える瞬間、もくもくと白煙が吹きあがつて、それでおしまひであつた。眼鏡を出して見ようと思つたがもうその暇はない。今井軍曹はもう次の作業にとりかゝつた。私も起きあがつた。今度は機体の上の窓から、宣伝ビラを撒くのである。私もそれなら出来ると思ひ、手伝ひませうと云つて、そこにある、束の印刷物を取りあげた。何処に向つて投げるのでもない。たゞ手を高く差しあげて、一度にぱツと放せばいゝのである。数千の紙片は、殆ど塊りのやうになつて、機体をすれすれに逃げる。二三枚は、尾翼に縋りつく。塊りは次第にほぐれる。鳩の群れのやうに飛び、吹雪のやうに散る。支那兵は、それの一枚一枚を拾つて読む。自国の到るところに反蒋運動が起つてゐることを知らされるのである。
編隊は徳安の南方永修附近で、大旋廻をして再び機首を北に向けた。第二回の爆撃が、同じ※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]津街の上に加へられた。敵は、地上から若干の応戦をしたらしいが、私は気がつかなかつた。戦闘機でも飛ばして来るのであつたらそれこそ油断はならんが、そんなおそれがあるとすれば、われわれの同乗は勿論許されなかつたであらう。必要にして十分な満足感を得て、基地に戻る。心にくき当局の計ひであつた。
明日は武穴の対岸馬頭から○○部隊の陽新攻撃を見に行くといふので、リユックサックに入れる品物を撰り分ける。
かねがね私は、占領直後の街へ憲兵と一緒にはひつて行つたら、住民の動静を観察するうへに便利であらうと思つてゐたから、幸ひ今、九江に同期の五十嵐が漢口○○○長として待機してゐるのに、その話をしてみた。
「そんなら漢
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