、河幅が狭ばまり流れが急になる。小姑島の奇景を雨のなかに賞でながら彭沢に着く。××部隊の駐屯してゐることがわかる。街を囲む三方の山の向ふ側には、まだ敵がゐるのださうである、稜線のところどころに日の丸の旗が樹つてゐる。歩哨線であらう。背水の陣をそのまゝのこの備へに、私は胸をうたれた。

     九江

 河岸に面してずらりと建ち並んだ赤煉瓦の洋館は、この港が英国人の手によつて開かれたことを物語つてゐる。
 外国租界らしい一区画を抜けて、商店街に出ると、看板だけは麗々しく出てゐるが、どの家も空つぽである。たまに軍隊の宿舎や倉庫にあてられてゐるものゝほかは、日本人の写真屋と時計屋が一軒づゝ店を開き、売切れといふ札のかゝつた酒保の鉄柵が閉ぢたまゝになつてゐる。
 ひつきりなしに軍用トラックが通り、砂塵を捲きあげる。髭面の兵隊が鉄兜を背負つて急ぐ。
 軍報道部から兵隊宿舎増田旅館に落ちつく。二階のヴェランダは湖に※[#「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1−91−13]み、晴れてゐれば、廬山が一望のうちにある筈だが、生憎雲が低く垂れて眺望がきかぬ。
 田家鎮陥落の報到る。
 九江から前線へ出る方法はいくらもある。近いところでは、星子方面、例の徳安攻撃部隊につくこともできる。更に、江南地区の各作戦部隊に追ひつかうと思へば、これも便宜が与へられる筈である。いゝ機会をとらへれば、今から大別山の彼方へ飛ぶことも一策である。
 武漢攻略の大殲滅戦が眼の前に展開されようとしてゐる時、われわれ一行の望むところはみなおなじであつた。
 雨の日が続いた。
 ×××××の案内で、難民区を訪れた。避難民を一地区に収容し、その整理と救済の事業が始められてゐるのである。七月二十七日同地占領以来、住民の復帰する数は次第に増加しつゝあるが、まだ居住の自由は与へられてゐない。附近の農民でこの町へ流れ込んで来るものがある。難民整理委員会弁事処といふのができ、難民のうちから、元県知事をやつてゐたといふ老人が会長に選ばれてゐる。男は苦力として使役し、賃金を軍部で支払ふと、彼等は、それで軍配給の米を買ふといふ仕組にしてある。女は、野戦病院の雑役婦として働かすやうなことも考へられてゐる。軍への労働力の供給といふ問題は、作戦と同時に重要視されねばならぬ。
 話に聞くと、最初、わが軍が同地にはひると、約五千の難民が、米・仏関係の教会、病院等四ヶ所に集まつてゐた。しかも、それらのうちには、既にコレラ患者が続々発生して手のつけやうがないくらゐであつたから、わが方では、その対策にとりかゝつた。軍医に協力して、同仁会の斑員が目覚しい活躍をしたのはこの時である。屍体を天主堂の前で焼きながら、難民の一人々々にワクチンの注射をした。軍隊はむろん城外に露営せしめ、全市の井戸水を検査したところ、その大部分に菌を発見した結果、敵軍の仕業とにらんだのであるが、それには確たる証拠はあがつてゐないらしい。
 ともかく、この地を棄てゝ逃げた敵軍は、各戸毎に残つてゐる鍋釜を悉く使用に堪へないやうに破毀して行つたといふ事実から推して、その周到ぶりを察することができる。
 コレラは二週間で撲滅した。この間、例の外国宣教師の態度について、当時折衝に当つた憲兵の印象が甚だ示唆に富むものである。曰く、米国人は、文句を云はずにわが官憲の命令に従つた。のみならず、応対すべてわれわれに好意的であつて、積極的な協力をも惜しまぬ風が見えたに拘はらず、フランス人は、概して傲慢、不遜であつて、いちいちやることが自分本位である。難民を収容するのはいゝとして、健康者のみの引渡を要求した際、故意にコレラ患者のみを突出したり、難民の待遇についても、彼等に食費を払はせ、その多少によつて賄に差別をつける等のことをしてゐた形跡があり、殊に不都合なのは、教会の倉庫に他へ避難した住民たちの家財道具を預り、その保管料を取つてゐることである。市中の民家にフランス権益を表示するマークがところどころ附せられてゐるが、厳重な調査を必要とするものである。
 私は、その後、憲兵隊の許可を得て、試みにフランスの天主堂と病院並に孤児院を訪ねてみた。
 天主堂の一つは宿のすぐそばにあり、なかなか立派な建物である。司祭に刺を通じて、病院を見たいといふと、今案内するが、その前にこれを見てくれと云つて、先づ河岸に面した庭の一隈へ私を連れて行つた。そこは煉瓦を積んだ塀になつてゐて、銃眼を穿つた跡がみえ、掘り返された庭の土が生々しく平《な》らしてあつた。
「支那軍が此処にもゐたのか?」
 私は訊ねた。
「然り。だが、日本の海軍がこの正面から砲撃を開始する前に、彼等は此処を去つた。それについて君に知つてもらひたいことは、この場所を支那軍に利用させるやうなことは、決してわれわれはしなかつたといふことだ。最初、支那兵の一隊が此処へ侵入して、無断で陣地を構築しはじめた。自分は、厳重に抗議した。隊長は聴き入れない。命令だからやるといつて動かない。自分は、その命令が何処から出たかを知る必要はない。早速漢口の領事館へ電報を打つた。支那当局に向つてかゝる行為の禁止を要求してもらふためである。領事から返事が来た。その返事はこれだ。支那当局は直ちに要求を容れた。必要な手配がとられる筈だが、極力実行を監視せよといふのだ。自分は殆ど腕力に訴へて、支那人を追ひ払つたのだ。しかも、彼等に、破壊した部分を修復せよと迫つたが、彼等は、この通り申訳のやうなことをして立ち去つて行つた」
「この外観は、依然として陣地である。日本軍の砲撃は受けなかつたか?」
 彼は、そこで、空を仰いだ。そして、黙々として私をある一室に導き入れた。彼の居室である。
「恐しい瞬間だつた。自分は砲声の轟いてゐる間、なにをしてゐたと思ふか。しかたがないから、こゝでパスカルを読んでゐた」
 肩をぴくんとあげるといつしよに、芝居気たつぷりなこのカトリックの坊さんは、ソファの中で片眼をつぶつて笑つた。
 天主堂の内部もまた、本国の寺院建築をそのまゝうつしたものであるが、材料の貧しいこと、工事の拙いことをしきりに坊さんは弁解する。
 病院はすぐ向ひ側になつてゐて、これは別の修道院の管理下にあることがわかつた。院長の尼さんに紹介される。いゝ育ちを思はせる毅然としたフランス女で、私が何者であるかを説明すると、やゝ寛いで話をしだした。
「いまはごく僅かの患者しかゐません。医者はみな引あげました。薬も手にはいりませんから……。それに、今度、日本軍から、この建物を戦病兵収容のために使ひたいから貸さぬかといふ交渉があつたので、上海の本部へ指令を乞ふ手紙を出しました。まだ返事が来ませんが、許可があり次第、お引渡しするつもりで、もう移転の準備をはじめてゐるところです。まあ、ごらんください、別に大した設備もありませんけれど……」
 司祭のモレル氏は私の希望に応へて、この病院に関する簡単な説明書をタイプライターで打つてくれた。それを訳してみる。

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 名称――聖ヴァンサン病院。一八八〇年、茶及船舶製造に従事する苦力のために創立。最初の経費は年額一四三〇両、現在は年額二五〇〇〇ドルに達す。
 構内は四種の病院に分る。欧洲人のための病院、支那人のための有料病院、同じく無料病院、婦人及乳児のための病院。病床一五〇、手術室大小各一。
 前年度成績は入院延日数二二八三〇日。毎日午前医局外来及貧民区往診。投薬数三四、七四三名。
 職員其他――医師一、教母一〇、男女傭人八六(看護婦、雑役、炊事係、洗濯婦)
 附属小学校――教師九、生徒一五〇。
[#ここで字下げ終わり]

 彼女のあとについて、部屋々々をのぞいてまはる。
 こゝで私は、この病院の規模について詳しいことを語る必要はないと思ふ。たゞ、すべてが明るく、清らかで、温い微笑をたゝへてゐるやうに思はれた。「西洋」は厳然と別天地を作つてゐて、恩寵はこゝにのみあるかの如くである。重病患者の枕もとに、やはりフランスの尼さんが一人ついてゐた。にこやかな会釈をもつて私の目礼に応へた。支那人の尼さんもいくたりかゐた。それぞれ荷造りの最中であつた。院長が言葉をかけると、実にはきはきした調子で受けこたへをする。こゝにかうしてゐるのが幸福さうにみえた。
 日を更めて、もうひとつの天主堂へ出掛けて行つた。そこは、郊外に近いところで、附属の神学校があり、四十人の支那学生が事変をよそに講義を聴いてゐた。司祭はもう五十年も支那にゐるといふ老人で、あのフランス人によくみる皮肉な顔附と、殊に、例のこだわりのないカトリック的自由さとが、私をははん[#「ははん」に傍点]とうなづかせた。
「世界中で支那は最も貧民の多い国だ。支那の農夫たちがどんな生活をしてゐるか、君は知つてゐるか? 彼等は、あらゆる天災の犠牲者だ」
 広いホールの真ん中で、彼は私とほかに四五名の職員――なかに支那人の姿も見えた――を前にして語るのである。
「戦争……何時の戦争もおなじことだ。われわれはどうすることもできない。たゞ、日本と支那との関係を考へてみよう。自分が今日まで支那で過した経験から云へば、嘗て日露戦争後の一時、支那の上下をあげて日本贔屓であらうとした。日本でなければ夜が明けぬといふ状態になりはせぬかと思つた。その頃誰が今日あることを想像し得よう。欧米人が日本人と異なることを支那に於て行つたとすれば、それはかうだ。欧米人は金を少し余計に出した。しかも、それは資本を支那人の手に委ねて、その利益の幾分を要求するといふ仕方であつた。日本人は金を出し惜んだ。しかも、君達は自分で儲けてその分け前を彼等にも与へようといふのだ。彼等は前者を選んだのだ」
 私はこれに対して私の意見を述べる必要はなかつた。たゞ、「貴下は日本といふ国をご存じか」と問ふたら、彼は、「遂に行く機会がなかつた」と答へた。
 学生はどういふ風にして募集するかといふ質問に、傍らの一職員が、全国的に募集して厳密な資格試験をする。一旦入学を許可したものでも成績次第では淘汰するやうにしてゐるから、現在は優秀な学生ばかりだと、自讃した。誰でも宣教師になるといふわけには行かぬから、と、また一人が附け加へた。
 私は、これらの支那学生の眼に、日本といふものがどう映つてゐるかを知りたかつた。しかし、今は話をしても無駄であらう。たゞ、宣伝の道は何処にでも通じてゐるなといふ感じを抱いて、この天主堂の静かな門を出た。
 次は孤児院である。これも路を距てゝすぐ側の建物がさうであつた。固く鎖された門を叩くと、支那人の門番が、扉をそつと引開けた。案内のモレル氏が来意を告げると、一人の尼さんが出て来てわれわれを迎へ入れた。これは、小柄な婆さんで、なかなかしつかり者といふ印象を与へた。乳児の哺育からはじめて、普通学科の教育、十四歳に達すると手編レースの製作を手職として授ける段取りを説明する。目下、百六十人の孤児が収容されてをり、女の子ばかりなので年頃になるとそれぞれ結婚したり、仕事に出たりするが、さういふ連中が時々遊びに来るからそれが楽しみだといふ話などする。なかには、一生こゝの手伝ひをしたいと志願するものもある。既にこのひともその一人だと云つて、同じ尼さんの服装をした支那婦人を指さす。この婦人はレース工場の係りと見えて、多勢の少女たちにいろんな指図をし、私たちに仕事の細かい手順を見せて歩き、製作品の見本を取出して来る。この品物は買ふことができるかと訊ねると、いくらでも売るといふ。事変がはじまつてお客がぱつたり来なくなり、その上、これまで製品は大部分上海の本部へ送つてゐたのが、その便が途絶えて困つてゐると訴へた。九江へ碇泊する欧米の軍艦があると、艦長はじめ乗組の将校が大てい奥さんや子供たちの土産に買つて行つてくれるのだと、そばからフランス人の尼さんがおどけた顔をして口を挟む。それではわれわれもさうしようと云つてハンケチを数枚選んだ。なかなか贅沢品とみえて、一枚三円から七円ぐらゐする。それで儲けはないくらゐですと、支那の
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