長として、わざわざ一行を出迎へ、なかに私の加はつてゐることを予め知つてゐて、名前を呼ぶ声が聞える。非常に懐しかつた。しかも、彼をこの地位に見出したことは、なによりもうれしかつた。
西湖の風景はなるほど一応は賞すべきであらうが、元来、支那のいくぶん人工的な庭園美といふものを、それ自身としてあまり高く評価し得ない私は、こゝでも、季節と生活とを結びつけて、ある種の魅力を想像することができたゞけである。エキゾチズムとしては純粋なものを欠ぎ、楊柳と水の調和はこゝに求めずともほかにあるのである。たゞ画舫を浮べて湖心の三丹印月島に遊べば、余計な「日本的楽書」が到るところの壁を埋めてゐるのがやゝ惜まれるほどの雅致ある一廓にぶつかる。宿の露台から雨に煙る湖の街を眺めながら、私は杭州のどこかに淫逸な色合ひを感じた。
雨の晴れ間に、湖水を距てゝ聳える玉王山の頂上へ登つてみる。麓で山駕籠が待つてゐる。馬淵中佐が、自分は歩兵だから歩くと云はれ、私は赤面したが、後備なるがゆゑに許してもらふ。非常に嶮しい山道である。頂に近づいて、向ふ側の平野が見え、銭塘江を距てゝ、あそこが敵の陣地だと教へられた頃、二三発の銃声が耳にはひつた。
道教の寺がある。和尚は既に萩原とは旧知の間らしく、しきりに一同をもてなす。本堂では祈祷が行はれてゐる。喉を弾ませた陽気な節がまづ珍しい。僧侶は何れも髷を結ひ、その髷は、相撲の褌かつぎに似てゐる。この連想が手伝つてはゐまいは思ふが、その後どこでみた道教の僧侶たちも、みな一様に野趣満々である。どの寺も高い山の上とか、小さな孤島のかげとかにあつて、外界との交通をできるだけ絶ち、むろん女人を近づけず、恐らく肉食を禁じ、修業三昧に日を送つてゐるらしいが、その生活の厳粛さと徹底ぶりが、例の行ひすました風貌、自らを尊しとするポーズとなつて聊かも現はれてゐないのを私はちよつと不思議に思つた。これは私の意外な楽しい発見である。道教なる宗教について私は実のところ深く学ぶところもないが、これは正にひとつの人生哲学に相違なく、支那人のストイシズムはエピキュリズムに通じるところがあるのではないかと、妙な逆説をもちだしたくなるくらゐである。
序ながらこゝで、例の※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]陽湖の入口に大姑島といふ島があり、その島の同じ道教の寺を訪ねた際、壁間に掲げられた聯句を何気なく書きつけて来たから、参考の為に写してみる。
[#ここから3字下げ]
客至莫嫌茶味淡
山居不比世情濃
入吾門不分三教
到此地都是一家
[#ここで字下げ終わり]
ゆかしい言葉を久々に聞く思ひである。
もう一度是非寄れといふ萩原の言葉を胸に畳んで、われわれは上海へ引つ返した。翌日蘇州に向ふためである。
何時何処でといふことは差控へるが、われわれ一行がある小さな駅へさしかゝると、支那の小学生の一団が日の丸の旗と五色旗とを打ちふり、日本人の先生に引率されて、たしか「白地に赤く」といふ唱歌を合唱しながら、プラットフォームに整列してゐた。汽車が止つて、それがわれわれ一行を迎へてくれたのだといふことがわかつた。私は、正直なところ、なんだか変な気がした。顔をあげてゐられないくらゐであつた。先生の美しい意志が、子供たちの口を通じて、なにか無惨な響きを私の心に伝へてゐるのである。私は、その先生に対する満腔の敬意と感謝の念に誓つて断言するが、これは決して、私の個人的偏見ではないと信じる。民族心理の取扱ひの問題として機微に触れてゐるのである。みんなで真面目に考へなければならぬ問題だと思ふ。
さて、上海からの急行は、今日が最初の運転だといふことを、私の隣に偶然坐つてゐた見覚えのある将校から聞かされた。見覚えがある筈である、これこそ、学校時代に一級上だつた佐藤氏で、今日は、同氏が采配を振つてゐる鉄道部隊の晴れの日なのである。
やつとこゝまでに仕上げたのだといふ、破壊された鉄路の困難な修復工事について、一席、苦心談にちよつぴり手柄話を交へた、朴訥で至誠のあふれた話を面白く聴く。幾日でやると云つたら、出来ても出来なくてもやる。兵隊には無理を云つてろくに休ませない、作戦の必要からだ。ところが、しまひにそいつが当り前のことになるんでねえ、と、隊長は、兵隊が可愛くてたまらぬといふやうなしんみりした顔をしてみせる。満洲、北支、中支と、殊勲を樹て続けの、この軍用鉄道の権威は、敵が外した路線材料を、何処へ匿して逃げたかをちやんと知つてゐるのである。苦力を集めてさつさと引き出させるのだから、相手にとつて始末がわるいといふべきである。
なるほど、急行は二時間で蘇州へ着く。
例によつて特務機関のお世話になる。市政府、省庁へ儀礼的な訪問。有名な獅子林公園に失望し、近頃評判のわるい寒山寺が、どうして、俳味豊かな名刹として私を三嘆せしめた。規模の小なること、荒れ果てたまゝになつてゐること、バックの貧しいことは、改築の年代がごく新しいといふ事実とともに、この稀にみる清楚な寺院建築を、支那人のみならず、事変後続々と訪れる同胞たちに一顧の価をも感ぜしめないであらう。軒は既に傾き、瓦は剥げ落ちてゐる。生ひ茂る夏草の生ひ茂るまゝなのが却つていゝ。色褪せた壁の朱の、立ち枯れた並木の細い枝間に、寂然と光ある如くである。
南京一瞥
蘇州では名所見物が主であつたが、私はそれよりも、こゝへ来てはじめて落ちついた支那の街といふものに接し、民衆の日常生活の一端をのぞくことができたのをうれしく思つた。
殊に、出発の朝、同地駐屯の同期生平野がお手のものゝ○○艇を用意して、城外を繞る蘇州河の一部を走らせてくれたことは、この有名な運河の性質をのみ込むうへに非常に役に立つた。
大小無数の船が或は動き、或は止まつてゐる。その間を縫つて行くわれわれのモーターボートはすべての静けさを破る点で、およそ場所違ひのやうに思はれた。どの船からも支那人の顔がのぞいてゐる。街で出会ふ顔よりも一層底の知れぬ表情であつた。
わが警備兵が乗り込んで物資の輸送に使つてゐるらしい船もあつた。
汽車の沿道で、畑ばかりの続いてゐるなかに、ひよつこり船の帆が浮び出ることがある。「クリーク」といふ名は何時か呪はしい響きをもつやうになつたけれど、この大陸の平和な生活は、なるほど水の旅とはなしては考へにくいものである。
しかし、現在これらの水路は、所謂敗残兵の出没甚だしく、支那人は「税金」を払つて難を免れるといふことである。
いよいよ南京に着いた。
旧王城の遺跡と新開都市の面目とを雑然と混へたうへに、戦乱の余塵未だ消えやらぬ荒涼たる一角を残して、南京は、今、私の眼の前にやゝふて腐れ気味な姿を横へてゐる。
蒋介石の企図した近代国家建設の夢が、どの程度に実現されてゐたかを知るのには都合のいゝ場所だとは思はれたが、それよりも、事変前は百二十人に過ぎなかつた邦人の数が、軍人軍属を除いて今では三千八十一人に達してゐるといふ話を聞いたゞけで、私は現実の歩みの速いことに気がついた。但し、占領以来十ヶ月の今日、やつと、中学が一校、その授業を開始したといふ事実は、復興を語るうへに見逃してはならぬ現象である。
序に代表的な小学校を見せてもらふ。
寺子屋と呼ぶにふさはしい構への旧式な建物のなかで、「読方」を習ふ児童たちの声が聞える。教室をのぞくと、年のころ三十と思はれる女教師が、粗末な謄写版ずりの紙片を教科書代りにして、熱心に授業をしてゐる。非常に物馴れた調子である。児童達を一人々々前へ呼び出して、数行の漢字を読みあげさせる。彼等は、少しも臆せず、その滑らかな発音に自ら酔うてゐるやうにみえる。
読み終ると、先生の方をちらと見あげる。みな潤ひのある美しい眼をしてゐる。女の子は殊に、悧巧さうな、引き締つた顔だちである。授業がすむと、先生はわれわれの方に進み寄つて慇懃に会釈をする。
話をしてみたいがどうにも方法がないから諦める。かうして南京に踏み止まつてゐる教師の一人々々に、われわれは心から言ひたいこと、訊きたいことがたくさんある。「長期建設」はそのへんから始めねばならぬといふことを当局は気づいてゐるであらうか?
光華門、中華門、雨花台等の戦跡を訪れて大西少佐の講話を聴く。風雨に曝された白骨を拾ひあげたものがある。
夜は、燈火管制が実施されてゐるため、街へ出ることも出来ぬ。
真夜中にふと眼がさめる。上海以来、すでに様々なものを見た、そのひとつびとつの生々しさと共に、それが前後もなく互に重り合ひ、結びついてできあがつた「今日の戦争」といふ新しい映像が、頭のなかを一瞬去来する。耳が冴えてゐる。そして、その耳にまづ伝はつて来る闇の中の物音は、単調ではあるが、相当に激しい雨の音である。明日は雨かと思ひながら、からだを起して窓に近づいた。遮光用の黒いカーテンを引いて外を見た。すると、僅かに消し残した街の灯の下を、蜒蜿長蛇の如く、車輌縦隊の一列が通過しつゝあるのである。たつた今、雨の音だとばかり思つたのは、この幾百幾千の馬の蹄が、涸いたアスファルトを踏む規則的な響であつた。人は語らず、車は軋まず、馬もまた黙々と頭を垂れて、いづこに向つてか往くのである。
漢口へ! と、私も、急き立てられる思ひがした。
一行は、こゝで、廬州に向ふものと、九江を目指すものとに別れた。
私は、ともかく九江まで行くことにした。
船で揚子江を遡ることも経験のひとつである。
遡江船
御用船××丸の甲板に立つて、はじめて揚子江といふものゝ存在が如何に象徴的であるかを知つた。
それは大陸の象徴であるのみならず、支那の民族と歴史、その生活力と文化の象徴であるといふことに気がつくのである。
河幅は広いところと狭いところとあるが、九江までは、概して両岸の展望が利き、楊柳の木蔭に水牛の群れ遊ぶ様や、人家の周囲に銃眼を穿つた陣地が築かれてゐるのが見える程度である。しかし、その河幅いつぱいに、粘土色の水がひたひたとあふれ、流れと見えぬ深さで大地を逼ひ、澎湃として空を空につなぐこの超年代的なすがたを、日本のすべての人は想像もし得ないであらう。
その日の夕方、蕪湖に碇泊、上陸して市街を一巡する。先づ眼についたのは、あちこちの小高い丘の上に建てられた瀟洒な西洋館で、何れも屋上にフランスやアメリカの国旗が翻つてゐる。病院と学校である。
九江では煙草が払底だと聞いて、こゝで、ルビイクインの幾箱かを買溜めする。
夜、船の食堂で、漢口よりの日本語放送を聴く。やゝ中国訛りのある若い女の声で、はつきり支那側の宣伝ニュースを読みあげるのだが、ニュースの内容よりも、放送者の心理の方に興味が惹かれ、人間の生き方について、あり得べきあらゆる場合を考へさせられた。
翌朝、蕪湖をたつ。
午後一時五十分、前方の○○艦より信号がある。「本艦と共に全速力を以て航行せよ」
甲板へ出てみると、本船の備砲も既に射撃準備を整へてゐる。やがて、○○艦から対岸に向つて盛んな砲撃が開始され、敵陣地と覚しい高地の麓からも、時々火を吐くのが見える。そのうちに、船の近くへ水柱があがりだした。来るなと思つてゐると、船橋をすれすれに迫撃砲弾が掠めた。二発、三発、どす黒い煙が飛沫と共に散つた。船載砲の砲手たちは、襦袢裸で、「こん畜生!」と叫びながら、撃つ、撃つ。と、私のそばにゐた船長が、「あツ、あたつたツ」と、一瞬、顔色を変へた。さう云へば、今、船腹に激しいシヨックを感じたやうである。船員が飛んで来た。
「機関に当つたやうです」――それは間違ひであつた。
敵陣地に一条の煙が立ち昇つてゐる。何かゞ焼けてゐるのである。
二時三十分、敵味方とも砲撃中止、危険区域を脱したとみえる。船体にも、乗組員にも異状なし。甲板に砲弾の破片が落ちてゐたり、船腹に黒く焼け焦げのやうな跡がついてゐたりした。
太子磯に碇泊、一夜を明かす。
今日は銅陵附近でまた敵の砲撃に遭ふかも知れぬといふ。しかし、なんのこともなかつた。安慶を過ぎて
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