従軍五十日
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)相《すがた》で

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(例)※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]
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      前記

 この記録は昨年九月から十月にかけて、いはゆる「従軍作家」の一人として中支戦線のところどころを視察した結果、生れたものであるが、もともとこの種のノートを発表することによつてわれわれの任が果されたとは毛頭考へてゐない。
 しかし、自分の僅かばかりの見聞のなかゝら、国民全体に是非知つてもらはねばならぬと思ふことは、今日許される範囲でとりあへずそれを伝へる義務があると信じたので、いくぶん個人的な見方にすぎないことをもはつきりさせるつもりで、随筆風の印象記を綴つたわけである。
「従軍」といふ言葉を使ふことは、少くとも私一個の行動にはふさはしくなく、可なり躊躇されたのであるが、一旦さういふ名称が与へられた以上、特に異を樹てるにも及ぶまいと思ひ、わざとこれを踏襲した。
 何れにしても、私は私の性能に応じて、この機会を善用するほかはない。そこで一昨年の秋、北支に渡つた時と同様、戦争のいろいろな場面に於て、今度の事変の全貌をなるだけ正確につかむことに努力し、予想し得る将来の問題について、自分の判断の基礎となるべき資料を手の届く限り蒐めるやう心掛けた。その収穫が、今後、私の創作のうへにどう影響し、作用するかといふことは、現在のところ自分にもまだよくわからない。
 従つて、この報告は、極めて単純明瞭な思想と、やゝ性急な意図とをもつて、ジャアナリズムの要求に応へたことにもなるのであつて、最初の「従軍五十日」は、文芸春秋に、最後の「私の従軍報告」は、東京朝日新聞に、前後してそれぞれ発表したものである。後者は前者の概説に過ぎないし、大部分重複のきらひはあるけれども、文章の形式がやゝ違ふと思ふので、併せてこの一巻に収めることにした。
 この機会に、更めて内閣情報部と陸軍当局の配慮、並に、戦線各地区に於て望外の指導と便宜を与へられた諸官の好意に対し、深く感謝の意を表したい。
  昭和十四年四月[#地から3字上げ]著者
[#改ページ]

     上海から蘇州まで

 上海から杭州へ、それから蘇州、南京と、軍報道部の馬淵中佐が案内をされ、南京から九江、更に、そこを中心として星子、武穴、馬頭鎮等の前線に近い方面の誘導に、同じ報道部の松岡中尉が当たられた。
 この間、宿泊、交通、見学のプログラム、すべて向ふ委せで、われわれは殆んど客分の待遇を受け、重要な個所を見落さなかつた代り、個人的な印象を細かにノートする暇もなく、云はゞ、中支戦場の一般概念の注入に頭を費した期間であつた。
 漢口攻略戦のクライマックスとも云ふべき時機であつたから、第一線部隊に従つて、壮烈な対敵行動の場面を親しく見たい欲望は、すべての同僚の気持を急きたてゝゐたことは事実である。既に、そのつもりで、早くから単独先行したものもあるくらゐであつた。
 私も亦、毎日地図を案じ、各地区に於ける戦況を綜合して、どの部隊につけば、比較的都合よく自分の望むやうな程度に、観戦の目的が達せられるかを考へつゞけた。
 が、一方、九江に於ける各種の調査と、日増しに複雑化して行く街頭の現象とは、私をして今次の事変の特質と中心とが、何処にあるかといふ問題に決定的な判断を下さしめた。この判断は誠に平凡である。しかし、実感として私はこの判断に誤りがないことを信じ、短時日の旅行に総てを観ることができなければ、せめてこれだけは腰をおちつけてと思つたのは、所謂、そここゝに散在する占領地域の、小部隊を以てする警備と討伐と宣撫工作の実情である。日本軍の如何なる労苦が支那民衆に希望を与へ、その希望が如何なる相《すがた》でわれわれの理想とするところに近づきつゝあるか、といふ例証を是非一国民として心に銘しておきたかつた。
 そこで、すぐに頭に浮んだのは、例の彭沢といふ揚子江に沿つた小さな町である。船の上から眺めたところによると、戸数万戸に満たないくらゐの、三方山に囲まれた、美しい城廓のある水郷で、駐屯部隊のあることだけは、軒端につないだ馬や、山の中腹に掲げられた日の丸の旗で、ほゞ見当がついてゐた。いや、そればかりではない。船長の話によると、あの周囲の山の向ふに相当兵力をもつた敵がゐて、数週間前にも、守備隊がその逆襲を受けて悪戦苦闘したといふことである。この孤立無援にひとしい小部隊の、地味で苛烈な任務に私はかねがね心惹かれてゐたのである。が、どうも考へてみると、この町には九江や湖口とおなじく、住民がまだ多く還つて来てゐないらしい。地形の関係で外界との連絡がまつたく途絶えてゐるためであらう。
 さうかと云つて、これから前へ進めば、占領直後の騒然たる街の姿は嘗て北支の旅行で経験したやうに、眼に多くの刺戟は与へるであらうが、表裏様々な民衆の生活様相は見るすべもない。況んや、かの敗残兵のいくぶん計画的とも云はれるゲリラ戦術とはどんなものか、それを見届けるためには、少し後方の辺鄙な地点を選ぶに如くはないと気づき、私は、一旦南京へ引返した。
 南京警備の部隊の幕僚で、旧知の三国氏にその管下の部署並に一般状況の説明を聴き、更に、同地駐屯の××部隊長たる同期生山崎、大熊両君を訪ねて、雑談のうちに分屯警備地区の特徴を詳細に知るを得た。
 私の決心はついた。翌朝の急行で南京を発ち、鎮江から船で揚子江対岸に渡つたのである。
 十月二十日から三十日まで、楊州に止まつて、私は予定どほり、中支に於ける「隠れたる第一線」の実情を観察した。
 この間に、広東は落ち、武漢は陥ちた。
 輝やかしい戦果のあとにわれわれを待つものは、これこそ、国民の総力をもつて当らねばならぬ仕上げの事業である。日本のあらゆる精神的な能力がこゝで最も困難な活動を開始すべく準備されてゐる筈である。
 楊州地区は誠にこの問題について語るために誂へ向きの一例であると信じるから、私は今度の中支旅行の印象を誌すにあたつて、この地に於ける滞留十日の記録に重点をおくことにする。
 が、先づ順序として、足を上海におろしたところから始めよう。

 旅客機が博多から上海までを約三時間で運んでくれるといふことは、今日の航空知識をもつてゐるものなら誰でも想像がつくだらう。想像はつくが、実際さうであることを実験したら、誰でもちよつと驚き、うれしくなり、自分の手柄でゞもあるやうな錯覚をおこす。
 この種の錯覚に似たものが、若し私のこれからの記述のなかに現はれたとしたら、それは、私が日本人として生れたことの罪であるから許していたゞきたい。
 上海は、この地に働くある種の女たちに云はせると、長崎県上海市ださうだから、私など二十年前に、悲壮な気分で、天涯の孤客然と船をおりた記憶を恥ぢねばならぬ。
 さて、着陸場には軍報道部の馬淵中佐をはじめ、中山省三郎、火野葦平両氏、義弟の延原謙などの顔が見えた。延原の勤務してゐる同仁会の診療班長、瀬尾博士にも敬意を表することができた。廟行鎮、大場鎮などの、殆ど廃墟と化したあたりを、たつた今眼の下にみて、想ひを当時の凄惨なニュース面に馳せたが、この快晴の大陸の空を仰ぎ、沿道に蔬菜を作る同胞青年の甲斐々々しい姿を眺め、私の胸はふとある希望に和んだ。
 報道部で打合せをすませ、兵站宿舎である北四川路の東亜ホテルに落ちつく。前線と内地を往復する軍人軍属の足溜りに応はしい、簡にして要を得た宿舎である。支那人のボーイもゐれば、日本娘のサーヴィスも受けられ、帳場のお神さんはひつきりなしに電話にかゝり、食堂のテーブルには、三度々々クレオソートの瓶が出してある。
 ところが、厄介なことに、私は東京を出る時分から腰のあたりに小さな腫物ができて、どうもこのまゝうつちやつておけさうもないので、宿へ外科専門の瀬尾博士が寄つて下さつたのを幸ひ、その自動車で一緒に南市の同仁会病院へ連れて行つてもらつた。これは云ふまでもなく、軍と外務省の協力のもとに、支那難民の診療救済を目的に作られてゐる臨時の施設である。
 私は、有難く、友邦の難民諸君に混つて、博士の懇切な手当を受けた。これは余談だが、病院の廊下、各科の診療室には、老若男女の患者があふれてゐた。延原の説明に従へば、患者の数は日増しに殖え、しかも、その階級層、疾患の種類が目に見えて拡大されつゝあるとのことである。最初は極貧のものしか集まらなかつたのを、近頃では、宣伝が行き亘り、信用がつき、外国の類似の病院よりは一歩進んだものだとわかると、そろそろ、金を払はせてもよさゝうな手合がやつて来るやうになつたさうである。このことは後でも聞いたが、支那に於ける慈善病院の経営は、無料一点張りではその文化事業としての目的を十分に達し得られないらしい。つまり、彼等のうちで持てるものゝ面子を重んじる工夫が必要なのである。
 それと、もうひとつ面白い話は、病院を開いて数ヶ月の間、産科のお客さんが一人もなく、その係りのものは誠に手持無沙汰で困つてゐたところ、偶然ある患者が入院中お産をして、それが極めて安産であつたことを聞き伝へたものとみえ、それから以後、お腹の大きい訪問者が続々と押しかけるやうになつたといふのである。日本の産科技術をご存じないかと云ひたいところであらう。
 こんな呑気な話を吹き飛ばすやうな事件が、その日私の眼の前に展開された。
 一人の若い兵士が、下半身を鮮血に染めて、丁度私のはいつて行く少し前に外科手術室へ運び込まれた。
 巡察中、手榴弾を投げつけられたのである。さう云へば、こゝへ来る途中の辻々の警戒ぶりは厳重を極めてゐた。フランス租界を抜けて車が南市へはひると、街頭は俄に人影をひそめて、一種物々しい戦跡の風景が浮びあがる。屋根は落ち、壁は崩れ、鉄条網を張つた障碍物が横はり、黄浦江の濁流が無気味に白雲の影を呑んでゐる。
 若い兵士は手術台の上に横はつてゐる。可なりの重傷である。犯人は何者であらう。これは数日後、憲兵隊で聞いたのだが、捕へられた犯人は二十そこそこの女で、その自白によれば――彼女の夫は党軍の兵隊にとられて戦死した。その夫の兄は、彼女に銀五両と爆弾とを与へて夫の仇を討てと唆かした。彼女は素性をかくすために一巡警と再婚した。そして日本兵の屯する南市の裏町に居を構へ、機会を待つた。その日、日本軍の衛兵所へ、附近の民家で麻雀賭博が行はれてゐる旨を密告するものがあつた。二名の兵が巡察として派遣された。二階の階段を、擦れ違ひに若い女が駈け降りて来た。誰何する暇もなく兵士の小脇を潜つて彼女は階段の下に達した。爆弾がその瞬間、兵士の足下で炸裂したのである。
 一方で占領地域の治安工作は着々その実績を挙げつゝあるにもせよ、かゝる偶発事件の真相に我々は多大の関心をもつものである。
 支那民衆の相貌は限りなく複雑である。しかも屋上高く日章旗の翻るこの慈善病院のみは、厳として彼等の傷ける生命に救ひの手を伸べてゐる。医員、事務員の諸氏、並に看護婦諸嬢の自愛と健闘を祈りたい。
 上海では二日に亘つて海陸軍の戦跡を訪ねた。
 海軍は特に当時の陸戦隊員中、将校下士兵の各階級を代表する説明者が、現地について親しく戦況を語るといふ趣向で、極度にわれわれの実感は強められ、一行中、貰ひ泣きをするものもあつた。
 上海はあれほどの犠牲を払つて取つた町であるが、英仏租界といふ厄介なものがある以上、日本がこれに何を附け加へるかといふ問題は興味のある問題である。
 王子恵といふ人の晩餐に招かれた。維新政府の要人である。
 歴史に類のない政治的役割を負つて、彼は如何なる先人に学ばうとしてゐるかと、私はふと、この人の深い眼ざしに見入つた。日本語は日本人のやうに自由である。
 杭州に着いたのは雨の日であつた。
 プラットフォームに降りると、嘗て幼年学校で机を並べてゐた萩原が、この地区の○○○○
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