それでいゝと思つてゐた。今は、もつといろんなことが知りたい。知るべきことがたくさんあるやうに思ふ。両親が許せば日本に行つてみたい」
年長の方は、
「事変前から自分は日本に興味をもつてゐたけれども、十分に調べる機会がなかつた。日本の文学についても、たまに雑誌などで翻訳を読むぐらゐで、日本人の生活といふものが、さつぱりわからなかつた。自分は政治は好まない。だから、抗日的な思想には無関心であつた。今は、中国の危機であるから、これを救ふのは日本と手をつなぐ以外に方法はない。小学校へ勤めてゐるのは生活のためである。しかし、これから児童の教育といふ問題は、中国の新しい更生のために重要である。さういふ点でも、日本の指導を受けなければならぬと思ふ」
通訳のあやふやな言葉を、私の推測でやつとこの程度に整理したのだから、間違ひがないとは保証できぬ。
私更に、日支の協力といふことを二三の点で述べた後、
「将来若しこの楊州に日本文化研究の機関ができたとしたら、君たちはそれを利用する意志があるか?」と訊ねた。
二人は同時に、「大いにある」と答へ、若い方は、そのあとで、膝を乗り出して、「それは何時頃できるのか」と気の早い質問をした。
「そいつはまだわからない。しかし君たちのやうな青年がこの土地に沢山ゐるかどうか、それによつて早くもなり遅くもなるだらう。楊州の青年で抗日軍に参加してゐるものがまだ随分ありはせぬか?」
「多少はあると思ふが、現在楊州にゐないものでも、たゞ両親と一緒に避難してゐるものがたくさんある。何れは還つて来ると思ふ」
「避難してゐるところは何処が多いか?」
「上海、香港だ」
「小学校は現在どの程度に開いてゐるか?」
「まだごく少い。こゝでは私塾が大部分である。日本軍の許可を得なければ開校できないことになつてゐるから、今、その手続をしてゐる向きが多い。なかなかむつかしいらしい」
「新しい教科書はもう出来てゐるのか?」
「県教育局で目下編纂中だとのことで、自分のところでは臨時に刷物をこしらへてゐる」
「維新政府編纂のものがもう出版されてゐやしないか?」
「それは知らない」
私は二人の来訪を謝し、再会を約して別れた。
その後、桂班長に会つた時、県当局によつて編纂されてゐる新教科書がどんなものか見せてくれと話したところ、今まだ教育局長の手許で立案中だとのことであつた。編纂委員はどんな人物かと訊くと、教育局長自身が筆をとつてゐるらしいのである。一例として、国語教科書の草案に桂班長が眼を通した際、ひと処不穏な個所があつたので、局長を問責すると、彼は、自説を固持して譲らなかつたさうである。どういふところを不穏と認めたかといふと、なんでも「中国の現状について」といふやうな標題のもとに、支那の今日他国から侮りを受けるのは、国民のこれこれの欠点、従来の政治のこれこれの悪徳によるので、これを先づ矯正し改革しなければならぬが、そのためには、やはり、範を諸外国にとり、その長を学ぶ必要がある、と説きおこしたところまではいゝが、その次ぎに、文句は正確に覚えてゐないけれども、大体、欧米諸国はその文物制度、悉く完璧の域に達してゐるし、隣邦日本は、最近頓に長足の進歩を遂げ、云々、といふやうな言ひ方がしてある、そこが、桂班長に気に入らなかつたのである。
「どうしても変へないといふんですか?」
と、私はこの純情な愛国者の顔をみた。
「変へないといふんです。その通りだから変へる必要はないといふんです」
「局長といふのは、あの頤髭を生やした老人でせう? 学者なんですか?」
「歴史家ださうです。以前から県の教育局長をしてゐた男です」
「それで、あなたはどうしました?」
「変へなければ辞めてもらうよりしやうがありません」
「辞めましたか?」
「いや、辞めるわけにもいかんと云ふんです」
「さうすると、どうなります?」
桂班長は返辞に困ると文字通りそつぽを向く癖がある。私は、砲火のあとに、かゝる物騒な事件が数限りなく転がつてゐるのだと気がつくと、なにか心のせかれる思ひがした。
情長髪短
これは九江で聞いた話だが、戦死した支那兵のカクシに故郷の細君か恋人かから来た手紙がはひつてゐて、その手紙には、「情長髪短」といふ言葉で綿々の情を叙してあつたといふ。情《おもひ》は長く髪は短し、わが想ひに比ぶれば、この黒髪のなんぞ短き、である。
ところが、この表現は、あまり現代の支那には通用しない、といふのは、地方の小都会楊州あたりでさへ、若い女は殆どすべて断髪である。この風俗だけが、どうして支那全土を席捲したか?
私は、一日、憲兵隊の裏手に収容されてゐる俘虜を見に行つた。
この間の戦闘で一人連れて帰つたあの男の正体はなんであつたか、それも知りたかつた。
もうちやんと調べがついてゐた。
最初どうしても兵隊ではないと云ひ張り、遂に何を訊いても口を噤んで語らなかつた、あの「怪しい人物」は、その後、憲兵の前で遂に立派な歩兵伍長であることを自白した。姓名、孫寿安、年齢二十七、所属、八九軍一〇四師四九七旅六九七団第二営第四連。聴取書によると、彼は一年前まで百姓をしてゐたのだが、強制徴集で兵籍に入れられたのである。最初は炊事当番であつたが、累進して伍長となり、今度の戦闘では分隊を指揮してゐた。給料は月十一円、そのうち食費六円を差引かれるから五円しか手にはひらない。一日二食の給養で、午前九時と午後四時、あとは空腹を忍ばねばならぬ。上等兵となると給料は八円、一等兵が七円八十銭、二等兵で七円三十銭、食費は同様である。
兵隊は辛い。機会があつたら逃亡するつもりでゐた。捕虜になつた以上どうされても仕方がないが、万一赦されるならば、将来は日軍のために献身的に働くつもりである、云々。
もう既に、この収容所でも、「日軍のために」働いてゐるものがゐる。李成林といふ大尉もその一人で、なかなか役に立つ。誠意を認められて家内を呼び寄せることを許された。早速やつて来た細君は、甲乙二人であつた。何れも断髪の美人である。
歯医者さんに歯の治療をして貰ひに行く。独身のこの歯医者さんは、空家同然の住居に機械だけ据ゑて、書生、番人、下僕を兼ねた老支那人と二人で侘しく暮してゐる。
日本を離れて数年、各処を転々として、最近この町に腰をおちつけたのださうである。
治療がすむと、私に「これはどうだ」と云つて紙ぎれに書きつけた漢詩のやうなものをみせる。どうも恐縮だが、この自作の七言絶句はたゞ文字を並べただけのやうだ。「長江に船は浮べども帆の影が淋しい。楊州に美人多しと聞くけれども、果してさうだらうか。我は孤独の身を此処に運んだのだが、未だ妖艶わが魂を奪ふ姿を見ない。嗚呼、秋風なんぞ放浪の身に冷やかなる」といふ風なものであつた。
市場のなかをぶらぶら歩いてゐると、名も知らず、味の想像もつかない食物が、ずらりと店先に並んでゐる広い間口の家がある。奥をのぞくと、いくつもの卓子を囲んで、人々が盛んに飲み食ひしてゐる。料理屋だなと思つてつかつかと中へはひつてみたが、空いてゐる席がひとつもなかつた。
そこから少し先に、露天の茶店みたいなものがある。昼近くで腹が空いてゐたし、その茶店へ腰をおろすことにした。
隣の卓子で中年の男が食べてゐる蒸し饅頭のやうなものを私も注文した。
通路の片側には菊の鉢が一列に並べてある。
老人の客が一人、茶を飲んでゐる。そこへ手提をもつた男が近づいて来る。床屋であつた。髭を剃らせはじめた。髭がすむと、その床屋は、今度は按摩になつた。肩から手、手から脚へ揉みおろす。老人は、椅子に倚りかゝつて、いい気持さうに居眠りをしてゐる。
私は煙草を喫はうとした。給仕の男がコヨリの如きものを持つて駈け寄つて来た。そして、そのコヨリの先を口に近づけて、強く吹くと、ぽツと小さな焔が燃えあがつた。
戦争の道義化について
江都県城楊州の周囲は内城と外城とがあつて、外城の方は延長十支里に亙り、その昔倭寇に備へるために築かれたものだといふことである。
中支の各地方を訪れると、きつとこの倭寇の遺跡がある。
楊州の附近は名所が多いと聞いてゐたけれども、私はわざわざ行つてみる気がしなかつた。それよりも、ひとりで街をぶらぶら歩いてゐると、倦きるといふことがない。どこもかしこも曲りくねつた狭い道路で、人力車や手押車が通ると、通行人はいちいち道を除けなければならぬ。少し雑沓してゐるところでは、片手で車の梶棒を支え、片手でぼんやりしてゐる人間を押しのけながら、「ワイ、ワイ」といふ掛声をかけて歩いて行く車挽きの商売もよほど日本とは変つてゐる。もちろん歩いた方が速いにきまつてゐるが、それでも乗つてゐるものは降りやうとしない。車は文字どほり足代りなのである。ところが、これはほかの土地で聞いた話であるが、日本人がこの人力車に乗ると、覚えたばかりの「快々的《カイカイデー》」(はやく、はやく)をのべつにやるさうである。さもあらうと思ふ。
裏通りの住宅街は例の高い塀で屋敷の一廓一廓を囲んでゐるから、まるで壁と壁との間を縫つて歩いてゐるやうなものだが、それでも、ふと、四ツ辻などに出ると、急に明るく陽が射したところへ、どつしりとした土塀の線が美しく交はつて、豊かな落ちついた一廓を形づくつてゐることがある。すると、閑寂な門の構へにもなんとなく心惹かれて、潜り戸の何時か開くのをそつと待つやうな心持ちにもなるのである。
街のなかの要所々々には、巡警が立つてゐる。私は主にヘルメットをかぶつてゐたのだけれども、やはり服装で日本人だといふことがわかり、多少軍服まがひの服装をしてゐたためであらうか、それらの巡警はいちいち丁寧に挙手の礼をする。実に真面目な、俗に云ふ新兵さんのやうな礼で、私はその度毎に面喰ひ、恐縮した。
楊州といふ町は、支那でも珍しく清潔法が行はれてゐたとかで、下水もでき、なるほどさう云へば、どこを歩いてもそんなに臭いといふやうな場所はない。路傍の汚物も目立つて少い。これもしかし比較的の話で、日本内地の標準では、さあ、どういふことになるか。
さて、僅かの観察ではあるが、私にも、支那といふもの、支那人と云ふものがいくらか解りかけたやうである。
改まつて、それではどんなものだといふことになるとなかなかむつかしい。それは恰もわれわれがわれわれ自身について語るのが困難なのとおなじである。強ひてそれを云はうとすると、どこかに隙間ができ、その隙間から真実が逃げて行くやうな危惧を感じる。
さういふ点で、私は、これまで多くの支那研究家がどんな意見を公けにしてゐるか、それをぼつぼつ参考に読んでみたいと思つてゐる。私の浅い見聞はそれになにものをも附け加へないであらうことはほゞ想像はつくが、たゞ、さういふ支那及支那人なるものゝ享け容れかたについて、私には私の流儀があり、同時に、将来、われわれが支那及支那人に対する根本的態度がどうありたいかといふ希望が生れて来ないわけにいかないのである。
日支親善といふことが云はれてゐる。これは決して外交辞令的な、政治臭を帯びたスローガンであつてはならぬと思ふ。単に両国の利害問題を基礎として、その関係を道徳的な名義に塗りかるだけのことなら、国民全体がそれほど一生懸命にならなくても、若干の基本的条件がそろへば結果は期せずしてそこに趨くのである。しかし、われわれが理解するところでは、今度の事変は日支両国民の真の提携、真の協力なくしては、その収拾の方法さへなく、平和建設の大事業を円滑に進めることが甚だ困難なのである。まして、今後永久に亙つて、再びかゝる災禍を繰り返さない為には、お互に余程の覚悟と反省が必要である。
これを理論上から、日支、或は日満支の協同主義を唱へることは、一面に於てむろん必要でもあり、その効果は期待できないことはないけれども、それ以上に、国民と国民との感情的融和を計り、誤解から生ずる相互侮蔑の念を一掃することは、今日、両国の識者が何れも冀求するところである。
しかしながら
前へ
次へ
全16ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング