不必要に傷けないことがより以上大切である。進んでは、彼等を、わが理解ある方針の前に悦服せしめ、新支那建設の協力者たることを誓はしめるのが、最も「日本的」襟度であらうと思ふ。
 支那大陸に張られた欧米の根は、政治経済文化の面を通じて、物質的精神的に、様々な現象を今日われわれの眼前に見せつけてゐる。謂ふところの日支事変が、実は、これら欧米の勢力と発展日本の勢力との大陸に於ける争覇戦であるとみる説も一応首肯できるが、さういふ論議への浅薄な追従は、日本が今日まで支那に与へたものがなんであつたかといふ反省と、戦後の経営に先駆すべき文化工作の本質の探究とを、おのづから忘却せしめる結果を招き易い。
 最近新聞の伝ふるところによれば、維新政府外交部は、今度中支に於ける「外国籍の宣教師の滞在期間を制限し」「従来とかく軍事的政治的疑惑をもつて見られた外人宣教師を国内から一掃する」ことゝし、なほ近き将来に於ては、この制限を更に拡大し、「中華民国々民として入籍しない宣教師は一切入国を許可しない」方針だとのことである。
 該報道は更にかう附け加へてゐる。
「現在維新政府管下の外人宣教師は南京だけで廿余名、各地合して三百余名にのぼり、その大半は仏人の天主堂宣教師である。これら宣教師は神衣の蔭にかくれて自国権益のため暗躍する不良分子もあり、従来兎角の問題を惹起してきたものだ。入国制限の第一歩として中国民として入籍しないものに対しては一定の期間に退去を命ずることになつた」云々。
 維新政府がさう決めたのなら、それはそれでいゝが、日本も亦その責任の一半を負ふべきであるから、それ相当の覚悟が必要である。
「戦争だ、戦争だ」と、こゝでも私は自分に云ひきかせる。しかし「聖戦」の名に於て、私は飽くまでも、日本の現在の政治行動が、東洋の誇りとなることを望むものである。小感情、小利害のために、大局の理想を誤り、われら民族の狭量苛酷を天下に喧伝せしめることにならないやう、切に当局の冷静なる判断を乞ひたいと思ふ。
 ところで、かく云ふ私は、一方、欧米のある国々に於ける反日的空気なるものを目のあたりに感じてゐる。しかも、その空気をあふる巧妙辛辣な宣伝に至つては、われらの遠く及ばざるところだといふ新帰朝者の話も聞く。
 それに比べれば、なるほどわが国に於ける反英・米・仏の空気といふやうなものは問題にならない。新聞は多少煽動気味であるが、民衆は存外その笛に踊らない。が、それでゐて、無関心なのかといへば決してさうでない証拠に、広東でも海南島でも、やる時にはやるべしといふ決意を蔵してゐる。実にさういふところは頼もしい。この民衆の表情をそのまゝ大写しにして彼等に見せてやりたいと思ふくらゐである。
 民主々義国に於ける日本の評判のわるさは、単に彼等の東洋に於ける地盤を荒す小癪者といふやうな「政治的」理由による反感ばかりではない。さういふ反感の現れならば、さういふ形でのみ現はれるべきである。われわれはそれに対して顔を赧らめる必要はない。侵略国の名さへ、向ふで勝手につけたのだと、われわれは横を向いてゐることもできる。しかしながら、たゞ困ると思ふのは、日本の現在には、遠大な政治のみがあつて「国民」の「感覚」がないといふ観察を彼等に下さしめることである。
 一切の邪魔ものを取除くのはよろしい。国民全体が納得するやうな理由をつけてほしい。
 支那が欧米に依存し日本を疎んじる結果がこの事変を捲き起したのだといふ議論は、一見筋が通つてゐるやうで、なにかお互にさつぱりしないものが後に残る。東亜協同体の結成も、東亜新秩序の建設も、このさつぱりしないところを頬かぶりで通つてはいけないのだと思ふ。国民は今、何故に支那がかくまで欧米に依存し、われを疎んずる挙に出でたかを、とことんまで突きつめて考へてみなくてはならない時機である。
 政府当局も亦「国策の線に沿つて」この一点を十分に事変処理のプログラムのなかに具現し、第一に支那自身を、第二に、国民を将来の杞憂から解放することが目下の急務である。
 維新政府対外人宣教師の問題でも、かういふ常識の上に立つて事が進められつゝあると見ていゝかどうか、私は国民の一人として黙過できないのである。
 思はず脱線してしまつたが、以上の感想は別にこの楊州地区に於ける外人宣教師の現状に基いて云々したわけではない。特に断つておく。

     緑楊旅社

 本部指定の支那旅館に部屋をとつて貰ふ。日本で編まれた案内記によると、楊州の旅館の一般に不潔極まることを吹聴してあるが、この緑楊旅社は、流石に御用宿舎だけあつてそんなにひどくない。南京虫は覚悟の前であつたけれども、それさへ私の泊つた間には顔をみせなかつた。
 正面入口をはひると、広い土間のホールがあり、これが、衝立で奥の食堂と仕切つてある。右側の帳場は西洋のホテルとおなじになつてゐて、支配人がボーイに部屋の番号を云ふ。
 ホールの天井は三階まで筒抜けで、各階の廊下が四方を取囲んでゐる形である。部屋から廊下へ出ると下のホールがまる見えだから出入りする人物がいちいちわかる。
 ところで、このホールは、まつたく街頭の延長のやうなものだといふことは、そこへなら物売りでも乞食でも勝手次第にはひつて来られるらしい。小娘を連れた流しの唄うたひも、そこで一曲演じてみせる。この旅客相手の門づけは絶えず上眼をつかつてゐる。天井から落ちて来るものを見逃さないためである。
 若い男女の一組が、二階の手摺に臂をついて楊州小唄の哀調に聴き入つてゐる風景は、いかにもわれわれの想像の一隅に生きてゐる支那気分で、無作法なボーイのサーヴィスも全体の雰囲気からみれば一向苦にならぬ。それどころか、慣れるにつれて、簡便で、暢気でざつくばらんで、こんな居心地のいゝホテルは世界中にないと思ひだした。が、この感じは結局人さまざまで、ある人から見れば、不便で、横着で、だらしがないと云ふことになるのであらう。
 私は、そこを根城に、市中を歩き廻り、時々本部に顔を出し、占領後十ヶ月のこの楊州に、何が新しく生れつゝあるかをできるだけ見ておかうと心掛けた。
 事変前には、日本人がたつた二人、一人は塩務官といふ役人、一人は支那人の細君になつてゐる女、それきりであつたらしい。その塩務官のことはよくわからないけれども、西野某といふ女性は大民会発会式の式場でちらりと姿をみかけた。
 現在では、そのほかに、歯医者さんが一人、雑貨商をやつてゐる人が一人、はひつて来てゐる。
 料理屋風のものも一軒早くから店を開いたさうであるが、営業不振で何処かへ引上げて行つたとのこと、これはつまり、当地区の警備隊では兵士の外出を制限してゐるためだとわかつた。
 こゝでひとつ肝腎なことがある。
 小川部隊長の意見によると、警備部隊の信条ともいふべきものは、第一に軍紀厳正といふことであつて、その点少しでも緩やかなところがあれば、如何に士気が旺盛でも、戦闘力に欠けるところがなくても、最大の任務たる治安の確保は困難だといふのである。それはつまり、治安の要諦は、日本軍に対する住民の信頼と尊敬を得るに在り、単に武力による圧迫は、表面、彼等の服従を強制し得ても、住民の自発的な協力を得ることは不可能で、それなしには、治安の真の意味に於ける確保、即ち、残敵の蠢動を封じて占領地域を拡大するといふ軍事行動は勿論、治安と並行して発展すべき一般平和建設工作の基礎条件が備はらないことになるわけである。
 当地区では、部隊長のこの着眼によつて、平素の訓練が行はれてゐるばかりでなく、例へば外出の如きも、内地の勤務同様一週一度と定め、しかも散歩区域を限つて住民との不用意な接触を避け、日本軍の如何なる面も彼等の生活を脅かさないといふ事実を明かに示すやうにしてゐるのである。
 城門に配置された衛兵の態度をみても、場所柄、いくぶんは実戦本位になりがちであるところを、こゝでは厳に平時の姿勢を崩さず、最も整然たる規律的動作によつて、戈を収めた「日軍」の頼もしさを住民の頭に刻みこませてゐる様子であつた。
 部隊長は更に云ふ――
「兵隊には、少し窮屈でせうが、これも結局は兵隊の為になるんです。第一に事故をおこしません。住民は益々兵隊に好意をもつて、必要な物資をどんどん供給してよこします。敵の密偵などがはひり込むと、すぐに知らせて来ます。それから、たゞ怖いものと思つてゐた日本軍が、かういふ風に滅多に街へも出ないとわかると、逃げてゐた連中、殊に、大きな商人や、若い娘や、腕に職のあるものが続々帰つて来ます。街が街らしくなります。ほんとの復興がそこから始まるのです」
 私は問うた。
「上海の外国租界以外では絶対に見かけない中流以上と想はれる女が、平気で門口に出たり、街をぶらついたりしてゐるやうですが、あゝいふのは、もう安全だといふ見当がついたからでせうね」
「はゝあ、さういふのがお目にとまりましたか。私も実は、めつたに街などは歩かないもんだから……」
 そこで、私は、楊州美人なる定評に値する女が、もはや此処にはゐないといふ若干の人々の意見に反して、私の眼は、たしかに、この土地の女性に共通なある豊かな輪廓を見逃せなかつた旨を報告した。小川部隊長がそれを「わがことのやうに」悦んだかどうかはうけあへない。
 やはりこの緑楊旅社の食堂で、○○から巡視に来たある武官の一行を綏靖隊長の×氏が招待して、一夕、慰労の宴を張つた。
 私もその席に列つたのであるが、支那側自慢の楊州料理は評判に違はず甚だ滋味に富んだものであつたうへに、その夜は、この土地の名のある老歌手が、その家柄の要求する招待客の一人といふ資格で、楽師数名を伴つて宴席に連つた。
 琴に合せ、自ら胡弓を弾きながら、八十いくつとは思はれぬほど艶のある声で、しかも支那音曲にはまつたく素人の私にさへ、これこそ名人の喉と思はれるやうな、かれきつた、まことに味ひの深い歌ひぶりで、古典俚謡の数曲を聴かせてくれた。
 先日のあの激しい掃蕩戦のあとで、このしめやかな音楽のなんと胸に浸み入ることぞ、である。
 緑楊旅社の忘れ難い印象はこれだが、その老歌手の古木のやうな姿も、今なほ私の眼底を去らない。

     青年二人

 県長の×氏に頼んで楊州の代表的な青年二人を紹介してもらひ、通訳入りでもどかしい会話を交えた。
 一人は楊州中学を出て杭州の浙江大学文科に学び、事変と同時に帰省して、現在この土地の長生小学校で教鞭をとつてゐるといふ二十四五の青年、一方は南京鐘南中学の高等科二年を修了して、今、自宅で「ぶらぶらしてゐる」廿そこそこの「学生」である。
 代表的といふ意味はちよつと曖昧だが、県長の推薦だから、あらましの見当はつく。
 二人とも先づなによりも、温良そのものゝやうな、危険思想などは向うから遠慮しさうな人物であつて、率直に云へば、その何れからも私は中国青年の新しいタイプを感じとることはできなかつた。
 通訳も例の神戸仕込の床屋さんであつたといふことはなによりも失敗だが、かういふところに、既にわれわれの観察と判断の限界があることを痛感した。
 試みに私は、彼等の日本に関する知識を質してみた。具体的なことは殆ど頭にはひつてゐないやうである。云ひにくいことはもちろん控へたに違ひない。例へば日本の大学の名前などひとつも挙げられないといふあんばいである。
 浙江大学の文科では、なにを専攻したのかと訊くと、これは通訳の方が怪しいが、「詩文」だといふ返事である。「詩文」といふ科があるのかと重ねて問ふと、「古典文学」だと云ひ直す。
 そこで、筆談で補ひながら、「そんなら、現代文学とか、外国文学とかいふ科もあるのか」と訊いてみた。すると、そんなものはないといふ。このへんから、いよいよ通訳にも筆談にも信用がおけないと気がつき、話題を転じて、
「事変前と今日と君たちは日本に対する考へ方が多少は変つたゞらうと思ふが、どういふ風に変つたか、正直に云つてみてくれたまへ」と、私は切り込んだ。若い方が先づ答へた。
「事変前は、日本についてあまり知らなかつた。
前へ 次へ
全16ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング