意か偶然か司会者がそれを忘れたとあつて、桂班長は県長に激しく督促してゐるのを私はみた。
「戦争だ、戦争だ」と、私は自分に云ひきかせながら、場内の一隅で突然起つた爆竹のけたゝましい音に、馬の驚くのを制しつゞけた。
日本語学校
久々で雨が降つた。楊柳の葉がはらはらと散るほどの雨であつた。
かねて時間を打合せておいて、夕方五時に日本語学校を訪れる。
旧中学校の校舎で、平家の暗い建物であつた。教室は三組になつてゐて、それぞれ程度が違ひ、第一期は六月開校と同時入学であるから、この十二月に卒業の組である。
現在三期を通じて四百人の生徒がゐる。
教師は特務機関の職員と警備隊の兵隊で高等教育を受けたものと、都合三人でこれに当つてゐる。もうよほど慣れたものとみえ、立派に板についた教授ぶりで、謄写版刷りの自編の教科書は心細いが、熱と力に満ちた語調態度、まことに頼母しい限りである。
この雨に、生徒もなかなかよく出てゐて、真剣に先生の講釈を聴いてゐる。さう老人はゐないけれども、中年から少年まで、年齢のまちまちなことはこの種の学校としては当然であらう。
月謝をとらぬからでもあらうが、応募者が毎期定員を超過して、施設の拡張を必要とするとのことであつた。
桂班長並に受持教師の懇請によつて、私は第三期の組で一言喋つてみた。内容は少年の頭を標準にし、用語も六ヶ月速成の語学力を斟酌して、ほんの思ひついたことを二三話したのであるが、すぐ後で、受持の藤田先生(明大商科出身、砲兵伍長)が一人の少年を指名して、今の話を翻訳してごらんと云つた。
するとその少年はつかつかと前へ出て来て、級友の方に向ひ頗る慎重な顔つきで、しかも相当流暢に、殆ど私の喋つたぐらゐの長さで翻訳をし終つた。
それを聴いてゐた桂斑長は、
「うむ、うまいもんだ。ひとつも間違つてをりません」
私もさうだらうと思ふ。級総代は見事にこの試験に合格し、先生は大いに面目を施し、私も愉快であつた。
さう云へば、街で買物などしようと思ひ、店員のチンプンカンプンにこつちが諦め顔をしてゐると、そこへぬツと顔をつきだして、いきなり「なに欲しいか?」と通弁役を買つて出る少年が時々ある。さてはこの学校の生徒だなと今気がつく。
日本語の通訳のことで面白いのは、この土地の軍隊や官庁、その他で使つてゐる支那人通訳は、いつたいどういふ素性のものかと調べてみたら、なかにはちやんと日本内地の学校を出たものもゐるらしいが、多くは元の商売は理髪屋だといふ。つまり、楊州は床屋の産地なので、早くから技術修業のために一度は日本に渡つたものが、事変勃発と前後して郷里に引上げて来たのだけれども、遂に時勢は彼等をしてバリカンを捨てゝ舌の職業に転ぜしめたのである。
道理で県長専属の通訳の如きは、「えらいすみまへんな。ちよつと待つておくれやす」といふ調子で、神戸仕込かなにかの鮮やかなところをみせるものだから、なんにも知らぬ私は、変な通訳もあればあるものだと思つてゐた。
更めて云ふまでもなく、日本語の普及は、占領地区の重要な課題である。単に用を便じるのに必要であるとか、口が利ければ勢ひ日本人に馴れ親しむとかいふ直接の効果も十分考へられるが、それだけならこつちが支那語を覚へさへすればおんなじ理窟である。
私はさういふ実用方面のことよりも、日本語を通じて日本を知らせるといふ遠大な抱負をもつて進むことが、この際、文化的に見て新支那建設の基礎条件だと思ふ。
これがためには、この種の日本語学校を一層完備充実させ、優秀な日本語教師を養成すると同時に、一般小学校、中等学校へも日本人教師を配属せしめ、かつ、主要な都市には日本人経営の義務教育機関、高等専門学校及び大学を速かに設立し、かの欧米人が東洋諸国に於てなした如く、宗教の名により、或はこれに代る「理想主義的」イデオロギイによつて、支那青少年に「親日的」教養を植ゑつけることを企てなければならぬ。
この事業は、もはや一刻も忽せにできぬ。一日遅れゝば一日悔いをのこす結果となる。もちろん、この事業の困難は、その衝に当る人物の選択が極めて厳正かつ適切でなければならぬといふところにある。いゝ加減な人物が教壇に立つて、「日本、日本」と叫んだのでは逆に後始末が必要になるであらう。
私は、この緊急な問題が、近い将来に於てわが当局及び新支那の指導者により如何に処理されるかを刮目して待つものであるが、何よりも望ましいことは、わが国の知識層がこの時局の認識の上に立つて自ら奮起し、支那知識層と提携して、相互の文化交流を目的とする一大組織を結成し、民間事業としての機関を通じて教師雇傭の道を拓くべきであると思ふ。
この私の意見が、多数の人々の耳に空論と響くならば、また何をか云はんやである。
警察教練所
憲兵隊長の勧めで、今日は警察教練所なるものを見学する。
県警察局長の×氏が案内をしてくれる。
どうもかういふものを見せられても私は一向勘どころがつかめないのであるけれども、所長の熱心な訓練ぶりが、やゝ公式的とは思はれたが、敬意を表するに足るものであつた。
先づ密集隊形の教練からはじまり、槍術の型のやうなもので終るのだが、聊か講評めいたことを云へば、指揮官の動作と云ひ、列兵各個の運動と云ひ、支那式教練をはじめてみる私には、およそ戦闘の用には遠い舞伎的要素の過剰を感ぜしめた。
私はもとより、「軍隊式教練」といふものゝなかに、単に戦闘的要素のみをみるものではない。寧ろ、それと並行して、「儀式的な」あるものゝ最も合理化されたすがたを発見するものである。秩序と礼節がおのづからそこに生れるやうな、単純で正確な方法の規定がある。これは一方、団体の精神の象徴であると同時に、武力そのものゝ装飾化である。
この原理にもとづく教練の形態は、各国の文化の質に応じて多少の違ひはあるが、同じく最初に欧式軍隊を範とした日支両国の、今のこの距りはまことに興味深いものである。
警察局長が、私に是非何か感想を述べよといふので、止むを得ず私は、
「警察は軍隊ではありません、警官は敵を倒すのが任務ではなく、民衆の生活に秩序を与へ……」
と、まあこんな風なお座なりな警察礼讃をひとくさりやつてのけた。
郷に入つては郷に従へとは云ふけれども、私は、自分ながら、この即興的辞令があまりにも支那式であるのに気がつき、冷汗をかいた。
が、この時、ふと、この局長の帽子を脱いだ頭に、深い創痕が生々しく口を開いてゐるのを、あゝ、この人だなと思ひ出し、私は、突嗟に、通訳をとほして、
「先日は危険な目にお遭ひになつたさうですが、お怪我は如何です?」
と、見舞を述べた。
「はあ、ありがたう、この通り、もうよほどよくなりました」
といふ返事であつた。
つい一と月ほど前のことださうである。この局長が県公署の玄関を出て通りへさしかゝると、何者かゞ、乗つてゐる洋車の梶棒を押へた。と、その瞬間、後ろから鉈のやうなもので脳天をガンとやられたのである。
犯人はその場から姿を消してゐた。
憲兵隊の活動となつた。しばらく手がゝりは得られなかつた。ところが、ある日、一人の男が憲兵隊へ現はれて、犯人はこれこれと名をあげ、潜伏中の場所まで教へた。この密告者は、何者かといふと、奇妙なことで、犯人の一人の実兄であつた。
彼の陳述によると、局長殺害の指令を受けたのは、党軍陸軍大尉である彼の弟と、その部下二名のものであるが、その指令を実行して、服命すると同時に、上官の某はこれを即座に銃殺してしまつた。恐らく犯行系統の発覚を恐れ、爾後の行動の秘密を保つためと思はれる。弟の仇敵たるこの上官某と、部下の二名が今なほ楊州城内にゐるのである。生かしておくわけにいかぬ。ざつとこんなわけであつた。
憲兵は直ちに出動、難なく一味を補へた。正規軍の大隊長はかくてゲリラ戦術の裏をかゝれてしまつたのである。
警察局長は、この事件以来、洋車の前後左右に一団の護衛を附し、洋車が全速力を出すと周囲の護衛も韋駄天のやうに走るその光景を、私は屡々路上で目撃した。
街頭の伝道
一夕、小川部隊長と本部の食堂で会食をした。円い卓子を囲んで本部附の将校がずらりと並んでゐる。
何れも血気旺んな青年士官であるが、隊長の盃を含んでの談論風発には、面々いさゝか気を呑まれたかたちであつた。部下の訓育に心胆を砕くといふやうな名隊長ぶりは、寛いだ食膳の応酬にも、磊落な鋭さをみせて、容易に若い心にも隙を与へない。
誰かゞ、うつかりこんなことを云ひだした。
「今日、街を歩いてゐましたら、あの東門をはひつた十字路のところで、例のアメリカの宣教師が住民を集めて説教をしてゐました」
「どんなことを喋つてた?」
小川部隊長は突込む。
「いや、遠くから見たきりで、話は聴きませんでしたけれど……」
「ふむ、心細いな」
私は、この地区に於ける外国人の取扱ひについて、一言質問をしようかと思つたが、それはやゝ立ち入りすぎるかも知れぬから思ひ止つた。
私の手帳には、楊州に於ける宗教関係外国権益の調査が次のやうに控へてある。
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┌男女中学 生徒数 二〇〇
│小学 同 二二〇(現在七〇)
仏┤
│聖女院実費診療所
└孤児院
┌小学、女子中学 生徒数 六〇(現在四〇)
│小学(男女) 同 一〇〇
│聖書講習会 同 五〇
米┤
│図書館二
│医院
└実費診療所
┌幼稚園、小・中学 生徒数 八〇
英┤
└社会事業団
[#ここで字下げ終わり]
なほ、宗教別による信者数は、
[#ここから2字下げ]
旧教――二〇〇
新教――五〇〇
仏教――三〇〇
[#ここで字下げ終わり]
とある。正確は期し難いが、旧教は仏、新教は英米であるから、この数の比例は大体こんなものであらう。仏教が意外に少いが、これは各寺院の檀家といふものは非常に僅かで、所謂寺詣りをする信者などはそんなにないことを示してゐるのであらう。
それから、フランス人経営の孤児院であるが、こゝでは単に事務所のやうなものだけがあり、孤児はすべて養育料をつけて乳母なる信者の家に預ける方法をとつてゐるとのことである。
いづれにせよ、支那大陸に於て、これら欧米人の宗教を通じて行ひつゝある文化事業の性質とその影響力とをわれわれは十分に注意しなければならぬ。彼等がその本国の政治的立場と密接な関係に於て行動することもあり得るであらう。また、単に、個人若くは団体の道徳的、社会的名分がわが軍事行動の前に自らを屈することを潔しとしない場合もあるであらう。そして、彼等の悉くは、なんらかの意味に於て「支那贔屓」である。支那贔屓といふことがそのまゝ日本嫌ひを意味するとは限らぬけれども、支那を墳墓の地と定めてゐる彼等の大部分にとつて、この度の事変は好ましからざるものであり、理窟の上よりも先づ感情的に支那の同情者たらしめてゐることは事実である。現地のわが将兵が、この空気を敏感に読みとるのは当然である。
しかしながら、本国の政策に準じて日本の逆宣伝を試み、日本の軍事行動を阻害するといふやうな、非打算的な冒険が、結果に於て何を齎すかといふことぐらゐは、こつちの出方ひとつで彼等にわからせることは容易だと思ふ。
まして、支那民衆の幸福のために、彼等が真に宗教家の信念と良心とをもつて一切の「政治」の外に立つといふならば、話は至極簡単である。日本当局は、彼等をして安んじてその教義を説き道を行はしめるがよい。看視の方法はいくらもあるのである。
徒らにその国籍によつて個々の教会に差別を設け、徹頭徹尾これを「政治的」に処理しようとするのは、決して「政治」としても上々の成績は挙げ得ないのではないかと思ふ。彼等は、今日、もはや日本軍の寛大に頼るよりほか、己れの使命を達成する道はないのである。外国の権益は成し得る限りこれを尊重するといふ百の宣言よりも、現地に於て、彼等の人間的感情を
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