が耳にはひつた。
道教の寺がある。和尚は既に萩原とは旧知の間らしく、しきりに一同をもてなす。本堂では祈祷が行はれてゐる。喉を弾ませた陽気な節がまづ珍しい。僧侶は何れも髷を結ひ、その髷は、相撲の褌かつぎに似てゐる。この連想が手伝つてはゐまいは思ふが、その後どこでみた道教の僧侶たちも、みな一様に野趣満々である。どの寺も高い山の上とか、小さな孤島のかげとかにあつて、外界との交通をできるだけ絶ち、むろん女人を近づけず、恐らく肉食を禁じ、修業三昧に日を送つてゐるらしいが、その生活の厳粛さと徹底ぶりが、例の行ひすました風貌、自らを尊しとするポーズとなつて聊かも現はれてゐないのを私はちよつと不思議に思つた。これは私の意外な楽しい発見である。道教なる宗教について私は実のところ深く学ぶところもないが、これは正にひとつの人生哲学に相違なく、支那人のストイシズムはエピキュリズムに通じるところがあるのではないかと、妙な逆説をもちだしたくなるくらゐである。
序ながらこゝで、例の※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]陽湖の入口に大姑島といふ島があり、その島の同じ道教の寺を訪ねた際、壁間に掲げられた聯
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