つてゐたよウ、ほかのひと家へ帰つたけれど、わたし一人、みなさんの来るのを待つてゐたよウ」
例の上海の女が、カンテラを片手に船を滑らせてやつて来るのである。
「ほう、感心々々」
と、小川部隊長は、はじめてみるこの変り種を、私がさうであつたやうに、また意外千万だといふ風に見あげ見おろした。私は今朝のことを説明した。
「懐しいんだな、奴さん」
日本兵を満載した船を、かうして甲斐々々しく操つて行く女の姿は、まことに、今日の戦場の奇観であつた。
軍工路守備隊からやつと自動車で、楊州の本部宿舎へ着いた時は、もう十二時を過ぎてゐた。
こゝで云ひ忘れてはならぬのは、今朝、名誉の負傷をした内田軍曹の消息である。その後、戦闘中止と同時に後方へ運ばれた同軍曹は、腹部貫通銃創が奇蹟的に腸を外れ、軍医も生命に異常なしと宣言した。隊長はじめ本部の一同は、軍曹並に小川部隊のめでたき武運のために盃をあげた。
大熊部隊長の巡視
翌日は、大熊部隊長が○○からこの地区の巡視に来るといふので、本部一同とともに私も鎮江まで迎へに出る。
警備隊専属の○○船で揚子江を横ぎり、その船でまた大熊部隊長の一行を運んで来るのであるが、途中、十二※[#「土へん+于」、第4水準2−4−61]といふ有名な塩の集散地で、同時に、地区隊の一部が守備してゐる地点に立寄り、更に、そこから北は天津まで通じてゐるといふ大運河を遡つて楊州に還り着く予定である。
前にも述べたとほり、大熊部隊長は私の同期であるが、三十年近くお互にはなればなれになつてゐたのだから、かういふ場所で整然たる公式の儀礼のなかに立つた彼の堂々たる部隊長振りをみることは、私にとつては感慨にたへないものがある。
発動汽船は蘆の密生した洲の間をぬけて河を上つた。
「この蘆で紙を作る計画があるんですが……」
と、小川部隊長が説明する。
「この辺は景色がいゝね。あれが金山寺の塔か」
と、大熊部隊長は遠ざかる岸の方を振り返る。
昨日の討伐の話が出る。
「ひとつ、軍旗を奉じて大々的にやりたいですな」
と、小川部隊長が腕を撫するやうに云ふと、
「うん、だが……」
相手が相手ではと、大熊部隊長の顔は答へてゐる。
「あゝさう云へば、○○が戦死した」
と、大熊部隊長が想ひ出したやうに云ふ。
「あ、さうでした。残念でした」
と、小川部隊長が悲痛な面もちで応へる。二人は、それだけで、この共通の大きな損失について同じ感情を解し合ふ如くであつた。
十二※[#「土へん+于」、第4水準2−4−61]の港へ着く。
数百万貫といふ塩の袋がうづ高く岸の広場に積んで並べてある。壮観ともいふべきこれら小山の連続は、ところどころ黒焦げになり、敵が退却に際して焼き払はうとした跡が歴然としてゐる。
この町は塩で生活してゐる町なのだが、今は、塩を売買するものがゐなくなり、それを運搬する苦力だけが残つてゐるのである。もちろん、この物資は敵産として目下処分されつゝあるのである。今考へると、この塩の停滞が中支一帯に最近の塩饑饉を現出したものであらう。現に、私の知つてゐる限りでも、九江附近の農民は、一握りの塩を得るために豚数頭を提供して惜まないといふ状態であつた。
しかし、もう、この塩が日本軍の手によつて地方にばら撒かれる段取りがついてゐるとのことである。
この土地の守備隊で話をきくと、一般住民の塩にたいする執着は怖しいほどで、雨が降ると、いち早く集積場の周囲へ流れ出る塩水をしやくひにやつて来る。また、歩哨の眼を掠めて塩の袋を盗み出すものがある。見つけ次第、歩哨は容赦なくぶつ放す。盗人は袋をかついだまゝ倒れる。すると、何処からか数人の人影がばらばらと現はれ、その袋の奪ひ合ひがはじまるのださうである。
一つの塩の山が崩されつゝある。恰度蟻がたかつたやうに苦力がうようよしてゐる。袋を二つづゝ肩にのせて検査所まで運ぶ。そこからはトロッコで桟橋の上を船まで押して行くのであるが、これは若い女の仕事である。
トロッコが通ると桟橋の上に白い筋が残る。そのこぼれた塩をねらつてゐるものがある。看守が見張つてゐてなかなか近づけない。
美しい結晶体の岩塩である。色のどす黒いのもあるが、大きな塊になると拳ぐらゐのがあつて、舐めてみるとちつともあくがない。支那人は海の塩よりこの方を珍重するといふことである。
さて、そこの巡視を終つて、一行はまた船に乗り込んだ。瓜州といふところからいよいよ隋の煬帝が作らせたのだといふ世界第一の運河にさしかゝる。幅は百米から二百米ぐらゐの大クリークである。堤防の上を曳き船の綱を肩にして、前こゞみにゆるゆると歩く人々の姿も長閑であるが、なによりも、この満々たる水の流れの静かさ! 一望千里の平野を点々と綴る楊柳の刷毛で塗つた
前へ
次へ
全40ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング