やうな薄縁が、澄み渡つた秋空の下で、なんとも云へぬやわらかさである。そのなかでふと眼にはひる朱色の廟の、物語めいて現実感のうすいのもこゝでは私の眼のせいばかりではあるまい。この水の上では、人は世紀を越えて生き、現在を過去として夢みることができるのではないかと思はれる。
船が三叉江といふところで止る。有名なお寺を見物するためである。
岸へあがると、すぐに門がある。「高旻禅寺」と壁に書いてある。別にどこがどう立派といふやうな構へでもなく、古びた本堂のなかで、百人ばかりの禅僧が一斉に読経の最中であつた。けばけばしい色彩はなにひとつない、ガランとした薄暗がりをすかしてみると、鈍色の揃ひの衣裳をつけた僧侶たちが、瞑目合掌したまゝ、われわれのはひつて行つたのを気づかぬ風で、朗々と底力のある声を張りあげてゐる。
老若の違ひこそあれ、いづれも、しつかりした顔つきの人物ばかりで、私はちよつと意外だつた。ひとかどの高僧と思はれるやうな悟りすました和尚もゐるにはゐるが、特に目についたのは、筋骨逞しく精悍の気の眉宇にあふれた入道であつて、文覚や蓮生坊を髣髴させる連中であつた。まことに生きた五百羅漢である。さうかと思ふと、われわれの案内に立つた若僧は住職の秘書らしかつたが、これは眉目秀麗、態度慇懃、その歩きつき、からだのこなし方、悉く貴公子然とした雅びなリズムがあつて、なかなか演劇的である。言葉の調子も、荘重で柔らかく、銃剣と軍刀の前で、悠然たる落ちつきを示し、
「この寺には不良分子はをりません。ご安心下さい」
と、媚びのない微笑を含んで云つた。
さう云はれて見ると、あの本堂の僧侶のなかに万一蒋介石がゐたとしても、恐らくそいつは発見できなかつたらうと思ひ、私はふと可笑しくなつた。
あまり広くもない敷地のなかには、畑が作つてあり、池が掘つてあり、牛が飼つてある。池の中の島に離れ家があつて、これは僧侶たちが修業のために若干の時日此処に籠るのださうだが、この僅かな池の水が外界との連絡を絶つとするところ、なかなか形式的で面白い。
泊り客のための一棟が鉄柵の彼方に設けられてゐる。そこは応接間といくつかの寝室とから成り、外来の賓客は此処で幾日かを過すことができる仕組みになつてゐる。すべて欧風を交へたセットの、東京の某々寺といふが如きである。
大熊部隊長の名で、日支両軍戦没将士の霊のために、一対の回向料を差出す。
船まで送つて来た若僧は、一同の武運長久を祈つてくれた。
こゝから、運河は二つに分れる。匪賊の最も横行する場所とのこと、乗組の護衛兵は一層警戒の眼を厳にする。
かういふ風にして天津まで行くのに幾日かゝるだらうとみなで笑ひながら話す。発動汽船ならレコードがつくれるだらうと誰かゞ云ふ。そんな暢気なことを喋つてゐる場所は、つひこの間、わが輸送部隊の襲撃されたところである。しばらくして、船がまた速力を緩める。
甲板に出てみると、岸に近く二階建の家屋があり、そこを中心に民家が左右に軒をつらね、運河に沿つた小部落を形づくつてゐる。
そして、その二階家は、土嚢の陣地をもつて囲まれ、入口に到る一側に若い将校を長とする一小部隊が二列横隊に整列して、部隊長の来着を待ち構へてゐるのである。
大熊部隊長は徐ろに起ち上り、
「あゝこれが○○守備隊だな」
と、部下の労苦をまづ感じ取る。
「気をつけ!」
守備隊長は、感激にふるへる一声、続いて、兵士が二人、素早く踏み板を提げ、甲板と岸とをつなぐ。
大熊部隊長は、小川部隊長以下を従へて閲兵のため上陸する。私は甲板に残つてゐた。
「捧げ銃!」
の号令で、私はふと、これらの将兵の眼を見た。そして、ぐつと胸がつまつた。彼等の眼はいづれも涙に光つてゐる。いや、もう既に泣いてゐるものすらある。部隊長の手許をはなれて数ヶ月、この僻陬の一部落に屯し、日夜敵襲に備へ、住民の向背に気を配り、偵察と連絡と給養と、その何れにも難を冒し、死を賭けてゐるのである。
部隊長のたまさかの巡視は、信頼につながる上下の心を無言の凝視の間に読み合ふ瞬間なのである。
この厳粛で、しかも感傷に満ちた光景は永く私の記憶を去らないであらう。
再び部隊長をのせた船が滑り出すと、送るもの、送られるもの、互に万感をこめて礼を交す。大熊部隊長の大きく挙げた答礼の挙手がいつまでもおろされない。すると、その手が心もちふるへて来た。私は急いで眼を転じた。岸に立ち並ぶ人家の前には、それぞれ住民たちが出てゐて、あるものは日の丸の旗を振り、あるものは帽子を脱いで頭をさげ、部隊長に敬意を表してゐるのだとわかつた。予めさういふ命令が出てゐるのであらうけれども、かういふ躾けの効果は私にはなんとも判断がつかぬ。恐らく、支那の無知識階級に対しては、これがなんらかの政治的指
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