導性をもつものと思はれる。
楊州に着いたのは日の傾く頃であつた。
迎への自動車で一行が城内に入るに先だつて、小川部隊長が何気なく大熊部隊長に囁いた言葉は、私の注意を惹くに足るものであり、この両部隊長の真に相許した関係を美しく貴く感じた。
「此処は別になにもさせてをりません」
住民の歓迎について云つてゐるのである。
「あゝ、もちろん」
と、大熊部隊長は朗らかに応へてゐた。
大民会発会式
大熊部隊長は地区隊本部及び各分駐守備隊の巡視を滞りなく終つて○○へ引上げて行つた。
私は塀内軍医や三輪○尉の案内で楊州の街を一巡した。人口十万と称せられる都会であるが、歴史的にも有名であり、長江流域の遊覧地の一つに数へられてゐるだけあつて、杭蘇二州と並んで風趣掬すべきものがある。
たゞ、交通の不便と、保守的な民情のために、前二者に比較して近代的な発展は遅々としてゐるやうであるが、それだけに、こゝでは純粋な支那を見ることができ、かつ、県当局の政治的な計らひによつて、まつたく戦禍を蒙らずして現在に到つてゐる関係上、住民の難を他に避けたものが少く、店舗は悉く開き市場は賑ひ、目貫の通りは雑沓を極めてゐる。中支一帯の都市を通じて、この程度に事変色を反映してゐないところは絶無であらうといふ印象を受けた。
ところが、いろいろ話を聞いてみると、なるほど此処に駐屯してゐた支那軍は、日本軍の攻撃に先だつて、易々と撤退したことは事実であるが、それでも、敵軍来の声に怯えて住民の大部は一時影をひそめてゐたらしい。それが、この通り続々と帰還した事情は、まつたくこの地を警備する日本軍の宣撫よろしきを得た結果であつて、特に最近の状態は、もはや若干の旧国民党系官吏並に有産階級を除いて、殆ど市民の全部が事変前の生活を取戻してゐるといふことである。
城門の一つに配置された衛兵所の傍らに佇んで、そこを出入する民衆の一人々々が所持品を調べられてゐる有様を見てゐると、実に旺んなものだといふ気がする。
何処へ運びだし、何処から運び入れるのか知らないけれども、手に手に大小の荷物をさげた老若男女が、押すな押すなで城門に殺到する。第一に武器を秘してゐるものはないかである。第二に脱税の見張りである。日本の歩哨と支那の保安隊員がこの検査に当つてゐるのだが、見てゐても眼のまはる忙しさだ。
時たま、怪しげな男が袖に拳銃をひそませ、巧みに両手を挙げながら検査官の前に立つことがある。
「かうして毎日歩哨に立つてると、なかには顔なじみになつて、にこにこ笑ひながら挨拶をして行くやつがゐますよ。だんだん内地にゐるやうな気がして来ます」
歩哨の一人は私にさう述懐した。
楊州の町はかく平穏にみえるけれども、数里を隔てた周囲一面にはまだ残敵が蟠居してゐて、そのために楊州政府はなかなか県公署としての機能運転が覚束ない。収税が思ふやうにいかないからである。地方の治安と経済の関係について私は迂闊ながらはじめて現実の知識を得たわけである。
そこで地方自治の母体たる民衆の結束がどういふ形で進められつゝあるかを知ることができたらと思つた。
と、折よく「大民会」の発会式といふのが行はれ、私もその式に列席する機会を得たが、この日のプログラムは大体に於て現在の政治的段階を語るものであり、所謂「民意」の反映は稀薄といふほかはなかつたけれども、ともかく会衆は堂に満ち、市民の中堅層を網羅してゐるらしいことが察せられた。
役員の宣言朗読や、会長の挨拶などに次いで、県当局並に日本軍幹部の祝辞が述べられる間、彼等は静粛に耳を傾けてゐた。どちらかと云へば、まだ不安の去らないやうな表情で、新事態の彼等にもたらす光明は、決してこれらの言葉ではないやうに思はれたが、しかも、私がそこに一点希望を見出した理由は、少くともこの楊州の住民たちは「抗日のための抗日」なる思相かからは遠いといふ観察を下し得たからである。
街を歩いてゐても、この土地が如何に政治色に染つてゐないかといふことだけは見当がつく。由来手工業と物資の集散によつて栄えたこの都市は、いく多の戦乱を潜つてその災禍に慣れ、政治を見放し、己れの殻に閉ぢ籠る安全を自覚した一種の気風をもつてゐるやうに思はれる。この気風を如何に利用すべきかゞ今後の問題であらう。
散歩の途中、一軒の本屋に寄つて、店さきの雑書を漁つてゐると、ふと、国民党編輯の唱歌集が眼についた。同行の堀口軍医が店員を呼んで「これはいかん」といふと、平身低頭、そのうちの抗日軍歌を引裂いてみせた。
また、ある宴会で、席に侍つた歌妓の一人が毛糸のスェーターを着てゐて、そのスェーターの裾のところに「九・一五紀念」といふ文字の編み込んであるのを誰かが見つけ、黙つてそれを指さしてみせると、彼女は、その意味をやつ
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