と覚つたらしく、なんども肯づく恰好をしてそれを何処かへ脱ぎすてゝ来た。
 かういふ些細なことを除くと、他の都市に見られるやうな街頭の抗日色はまつたくこの土地では一掃されてゐるやうである。「有日無我、有我無日」といふやうな宣伝標語を何処の壁にも見ないことは、私の今度の旅行を通じて、たゞこの町だけであつた。

     漢口陥落市民祝賀会

 十月二十七日の昼、桂班長がやつて来て、今日の祝賀会を是非見てくれと云ふ。
「だいたい三万人ぐらゐ行列に加はる予想です。体育場まで繰り込んで、大々的に気勢をあげます」
「小川さんも出掛けられますか」
「もちろん、将校は全部列席してもらふ筈です」
「行列の中へはひるんですか」
「われわれは馬に乗つて行きますから」
 なるほど、本部の前にはもう、将校たちがそれぞれ馬に跨つてゐる。
 私は渡辺○兵隊長のすゝめてくれる馬に乗つた。
「この馬は蹴りますから、どうぞお気をつけになつて……」
 と、当番が注意する。厄介な馬に当つたものだと思ひながら、私は絶えず後ろに気を配つた。
 いよいよ行列が動きだす。
 綏靖隊(帰順支那兵をもつて編成した軍隊)を先頭に、警察隊、税捐局守衛隊、教練所(警官教習所)生徒、日本語学校、各小学校、職業組合、大民会員、各公署代表、各鎮保長(町内の数戸を単位とする組織の長)各戸代表といふ順序である。
 喇叭の音に歩調を合せて進軍する綏靖隊は、まだ武器を支給してないので、その代りに「慶祝漢口陥落」と書いた紙の旗を竹竿にくつゝけて肩に担いでゐる。
 市中到るところ、祝賀のポスターが五色に貼られ、沿道には女子供の珍しさうに行列を迎へる顔がちらつく。
 繁華な通りにさしかゝると、通行人は立ち止つて道をよけるが、別に歓喜の色はみせない。
 なにか張合のない行列である。これがデモンストレーションの本体かも知れぬが、土地柄といふことも考へねばならぬ。私は、軍楽隊の必要を痛感した。
 体育場に集つたところをみると、行列参加の総勢は千五百乃至二千と私はにらんだ。数などはどうでもいゝが、桂班長の予想は何を根拠としたのか、この程度の誤差が、将来の工作に当つて、民衆心理判読の参考ともなれば寧ろ幸である。
 この会場では、一段高く設けられた「審判場」に立つて、県長以下が祝賀演説を行つた。
 最後に日本語で「万歳」を三唱する予定になつてゐたのを、故意か偶然か司会者がそれを忘れたとあつて、桂班長は県長に激しく督促してゐるのを私はみた。
「戦争だ、戦争だ」と、私は自分に云ひきかせながら、場内の一隅で突然起つた爆竹のけたゝましい音に、馬の驚くのを制しつゞけた。

     日本語学校

 久々で雨が降つた。楊柳の葉がはらはらと散るほどの雨であつた。
 かねて時間を打合せておいて、夕方五時に日本語学校を訪れる。
 旧中学校の校舎で、平家の暗い建物であつた。教室は三組になつてゐて、それぞれ程度が違ひ、第一期は六月開校と同時入学であるから、この十二月に卒業の組である。
 現在三期を通じて四百人の生徒がゐる。
 教師は特務機関の職員と警備隊の兵隊で高等教育を受けたものと、都合三人でこれに当つてゐる。もうよほど慣れたものとみえ、立派に板についた教授ぶりで、謄写版刷りの自編の教科書は心細いが、熱と力に満ちた語調態度、まことに頼母しい限りである。
 この雨に、生徒もなかなかよく出てゐて、真剣に先生の講釈を聴いてゐる。さう老人はゐないけれども、中年から少年まで、年齢のまちまちなことはこの種の学校としては当然であらう。
 月謝をとらぬからでもあらうが、応募者が毎期定員を超過して、施設の拡張を必要とするとのことであつた。
 桂班長並に受持教師の懇請によつて、私は第三期の組で一言喋つてみた。内容は少年の頭を標準にし、用語も六ヶ月速成の語学力を斟酌して、ほんの思ひついたことを二三話したのであるが、すぐ後で、受持の藤田先生(明大商科出身、砲兵伍長)が一人の少年を指名して、今の話を翻訳してごらんと云つた。
 するとその少年はつかつかと前へ出て来て、級友の方に向ひ頗る慎重な顔つきで、しかも相当流暢に、殆ど私の喋つたぐらゐの長さで翻訳をし終つた。
 それを聴いてゐた桂斑長は、
「うむ、うまいもんだ。ひとつも間違つてをりません」
 私もさうだらうと思ふ。級総代は見事にこの試験に合格し、先生は大いに面目を施し、私も愉快であつた。
 さう云へば、街で買物などしようと思ひ、店員のチンプンカンプンにこつちが諦め顔をしてゐると、そこへぬツと顔をつきだして、いきなり「なに欲しいか?」と通弁役を買つて出る少年が時々ある。さてはこの学校の生徒だなと今気がつく。
 日本語の通訳のことで面白いのは、この土地の軍隊や官庁、その他で使つてゐる支那人通訳は、いつたいどういふ
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