、日本軍が来たら逃げるといふことは、どこか怪しいところがあるからだ。かうして捕へられてもしかたがないではないか」
婆さんはそれに対して、返す言葉はないといふ風に、たゞ「どうか命だけは助けてやつてくれ」を繰返すばかりだ。部隊長は更にその男に向ひ、
「お前にはこのお祖母さんの心配がわかるか? 日本の兵隊は、深い親心に免じて、お前のやうな間違つたことをした人間でも赦すこともあるのだ。ともかく今度だけは、お前のからだをこのお祖母さんに預ける。こんなにお前を可愛がつてゐる年寄を決して粗末にしてはならんぞ。それから、日本軍のほんたうのところがわかつたうへは、お前こそ、第一に、日本軍のために尽さなければいかん。約束をしておくが、万一、支那兵がこの土地へはひつて来たら、すぐ日本軍の方へ知らせて来い」
祖母の胸へ押しつけられて、その青年は、夢をみてゐるやうな眼つきをしながら、ふらふらとその場を立ち去つた。
「怪しい奴です。しかし、たいして危険な代物でもない。あれでいゝでせう」
部隊長は、私の顔をみてさう呟いた。
橋梁破壊作業は、日が暮れてもまだ終らない。私は同夜、桂班長と一緒に県長との招宴に出席しなければならないことになつてをり、小川部隊長も、それを知つてゐて護衛をつけるから先に帰れと勧めてくれたのだが、最後まで部隊の行動を見たいと思ひ、そこに踏み止まつた。
その代り、部署をもたない兵隊諸君の溜りへ顔を出して、お互の間に交される雑談に耳を傾け、二三の人々にその日の感想を聞くことが出来た。しかし、改まつた問ひに答へることは彼等には困難とみてとり、私はつとめてさりげなく話を運んだ。
兵隊はみな若くて元気で、その上、生粋の都会児ばかりであつた。
「そしたら、おめえ、鉄兜の縁がぴよこんとへこんでやがんのさ」
「隊長殿が、おれのそばへ寄るな、離れろ離れろつて云はれるぢやねえか。あゝいふ時は、つい間隔のことは忘れて、みんな隊長の方へかたまつて行くだらう。妙なもんだなあ」
「あゝ、腹がすいた。おい、あの豚はどうだ。うまさうでやがら、畜生」
といふあんばいの会話しかいま私の頭には残つてゐないが、この数刻を農家の庭の乾草の山の上で過した印象は、私には決して縁遠いものではなかつた。
軒先に蹲り、外の光を惜み惜み、なにか繕ひものをしてゐた一人の老婆が、その飼豚のちよこちよこと庭先へ出歩くのを、まるで犬か猫かを呼ぶやうに時々顔をあげて呼ぶと、それがまた馴らされた犬か猫かのやうに、小さな尻尾をふりふり足もとへじやれつく光景は、どうも腑に落ちぬ手品のやうなものであつた。
命令はまだないけれども、どうせこの分では夕食の準備をしなければなるまいと、将校の当番たちが気を揉んでゐる。と、やがて、主計から、鶏と卵を買ひに行けと命令が伝はつて来る。それといふので、兵隊たちは腰をあげた。
「道を迷ふな」
「銃を持つてけ、銃を」
「懐中電燈はないかなあ」
「えゝと、うちはいくつあればいゝんだ?」
さういふ声が、もう、薄暗がりのなかに消えて行く。
しかし、作業は間もなく終つてしまつた。
集合、行軍隊形の編成、出発。
住民の一人を道案内として、部隊は軍工路を目標に凱旋だ。
とは云ふものゝ、この闇は、実のところ、われには不利な条件で、敵の乗ずべき好機なのである。
道らしい道はすぐに尽きて、例の畔道伝ひである。少し広いところに出たと思ふと、片側はクリークになつてゐて、足をすべらしたらそれまでだ。一列側面縦隊の、前も後ろも見分けのつかぬなかで、時々、ばたりと誰かの倒れる気配がする。
私は部隊長の後ろにゐたつもりだが、いつの間にかだんだん追ひ越され追ひ越され、つひに話しかけた後ろ姿の対手は人もあらうに例の捕虜であつた。
道がやゝ平らになり、ほつとして足もとをみると、すぐ眼の下を黒々と水が流れてゐる。驚いて一足あとへさがつた。
「大丈夫ですか? お疲れになつたでせう」
今井君らしい声である。そんなにふらふらしてゐるか知らと思ふ。
空がぽつと明るくなつたらしい。眼に冷やりとしたものが感じられる。いま、大きなクリークに沿つた道を歩いてゐるのである。岸に楊柳の並木が立ち並んでゐる。
足の痛みも、喉の渇きも忘れるやうな、ある無感覚の状態にときどきはひる。自分が歩いてゐるのだといふことさへ意識しない瞬間である。
灰色のビルディングが眼に浮ぶ。その前をすうつと通り過ぎてゐるのだなと頭のしんで考へながら、それがどこなのかわからない。美しいその建物のファサアドが、月光を浴びたやうに輝いてゐるのに気がつく。ふと我れにかへる。ビルディングと思つてゐたのは、楊柳の幹の間から、星空を映すクリークの水面であつた。
先頭が止つた。渡し場へ着いたのである。向う岸から女の声で、
「わたし待
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