前に外科手術室へ運び込まれた。
巡察中、手榴弾を投げつけられたのである。さう云へば、こゝへ来る途中の辻々の警戒ぶりは厳重を極めてゐた。フランス租界を抜けて車が南市へはひると、街頭は俄に人影をひそめて、一種物々しい戦跡の風景が浮びあがる。屋根は落ち、壁は崩れ、鉄条網を張つた障碍物が横はり、黄浦江の濁流が無気味に白雲の影を呑んでゐる。
若い兵士は手術台の上に横はつてゐる。可なりの重傷である。犯人は何者であらう。これは数日後、憲兵隊で聞いたのだが、捕へられた犯人は二十そこそこの女で、その自白によれば――彼女の夫は党軍の兵隊にとられて戦死した。その夫の兄は、彼女に銀五両と爆弾とを与へて夫の仇を討てと唆かした。彼女は素性をかくすために一巡警と再婚した。そして日本兵の屯する南市の裏町に居を構へ、機会を待つた。その日、日本軍の衛兵所へ、附近の民家で麻雀賭博が行はれてゐる旨を密告するものがあつた。二名の兵が巡察として派遣された。二階の階段を、擦れ違ひに若い女が駈け降りて来た。誰何する暇もなく兵士の小脇を潜つて彼女は階段の下に達した。爆弾がその瞬間、兵士の足下で炸裂したのである。
一方で占領地域の治安工作は着々その実績を挙げつゝあるにもせよ、かゝる偶発事件の真相に我々は多大の関心をもつものである。
支那民衆の相貌は限りなく複雑である。しかも屋上高く日章旗の翻るこの慈善病院のみは、厳として彼等の傷ける生命に救ひの手を伸べてゐる。医員、事務員の諸氏、並に看護婦諸嬢の自愛と健闘を祈りたい。
上海では二日に亘つて海陸軍の戦跡を訪ねた。
海軍は特に当時の陸戦隊員中、将校下士兵の各階級を代表する説明者が、現地について親しく戦況を語るといふ趣向で、極度にわれわれの実感は強められ、一行中、貰ひ泣きをするものもあつた。
上海はあれほどの犠牲を払つて取つた町であるが、英仏租界といふ厄介なものがある以上、日本がこれに何を附け加へるかといふ問題は興味のある問題である。
王子恵といふ人の晩餐に招かれた。維新政府の要人である。
歴史に類のない政治的役割を負つて、彼は如何なる先人に学ばうとしてゐるかと、私はふと、この人の深い眼ざしに見入つた。日本語は日本人のやうに自由である。
杭州に着いたのは雨の日であつた。
プラットフォームに降りると、嘗て幼年学校で机を並べてゐた萩原が、この地区の○○○○長として、わざわざ一行を出迎へ、なかに私の加はつてゐることを予め知つてゐて、名前を呼ぶ声が聞える。非常に懐しかつた。しかも、彼をこの地位に見出したことは、なによりもうれしかつた。
西湖の風景はなるほど一応は賞すべきであらうが、元来、支那のいくぶん人工的な庭園美といふものを、それ自身としてあまり高く評価し得ない私は、こゝでも、季節と生活とを結びつけて、ある種の魅力を想像することができたゞけである。エキゾチズムとしては純粋なものを欠ぎ、楊柳と水の調和はこゝに求めずともほかにあるのである。たゞ画舫を浮べて湖心の三丹印月島に遊べば、余計な「日本的楽書」が到るところの壁を埋めてゐるのがやゝ惜まれるほどの雅致ある一廓にぶつかる。宿の露台から雨に煙る湖の街を眺めながら、私は杭州のどこかに淫逸な色合ひを感じた。
雨の晴れ間に、湖水を距てゝ聳える玉王山の頂上へ登つてみる。麓で山駕籠が待つてゐる。馬淵中佐が、自分は歩兵だから歩くと云はれ、私は赤面したが、後備なるがゆゑに許してもらふ。非常に嶮しい山道である。頂に近づいて、向ふ側の平野が見え、銭塘江を距てゝ、あそこが敵の陣地だと教へられた頃、二三発の銃声が耳にはひつた。
道教の寺がある。和尚は既に萩原とは旧知の間らしく、しきりに一同をもてなす。本堂では祈祷が行はれてゐる。喉を弾ませた陽気な節がまづ珍しい。僧侶は何れも髷を結ひ、その髷は、相撲の褌かつぎに似てゐる。この連想が手伝つてはゐまいは思ふが、その後どこでみた道教の僧侶たちも、みな一様に野趣満々である。どの寺も高い山の上とか、小さな孤島のかげとかにあつて、外界との交通をできるだけ絶ち、むろん女人を近づけず、恐らく肉食を禁じ、修業三昧に日を送つてゐるらしいが、その生活の厳粛さと徹底ぶりが、例の行ひすました風貌、自らを尊しとするポーズとなつて聊かも現はれてゐないのを私はちよつと不思議に思つた。これは私の意外な楽しい発見である。道教なる宗教について私は実のところ深く学ぶところもないが、これは正にひとつの人生哲学に相違なく、支那人のストイシズムはエピキュリズムに通じるところがあるのではないかと、妙な逆説をもちだしたくなるくらゐである。
序ながらこゝで、例の※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]陽湖の入口に大姑島といふ島があり、その島の同じ道教の寺を訪ねた際、壁間に掲げられた聯
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