句を何気なく書きつけて来たから、参考の為に写してみる。
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客至莫嫌茶味淡
山居不比世情濃
入吾門不分三教
到此地都是一家
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 ゆかしい言葉を久々に聞く思ひである。
 もう一度是非寄れといふ萩原の言葉を胸に畳んで、われわれは上海へ引つ返した。翌日蘇州に向ふためである。
 何時何処でといふことは差控へるが、われわれ一行がある小さな駅へさしかゝると、支那の小学生の一団が日の丸の旗と五色旗とを打ちふり、日本人の先生に引率されて、たしか「白地に赤く」といふ唱歌を合唱しながら、プラットフォームに整列してゐた。汽車が止つて、それがわれわれ一行を迎へてくれたのだといふことがわかつた。私は、正直なところ、なんだか変な気がした。顔をあげてゐられないくらゐであつた。先生の美しい意志が、子供たちの口を通じて、なにか無惨な響きを私の心に伝へてゐるのである。私は、その先生に対する満腔の敬意と感謝の念に誓つて断言するが、これは決して、私の個人的偏見ではないと信じる。民族心理の取扱ひの問題として機微に触れてゐるのである。みんなで真面目に考へなければならぬ問題だと思ふ。
 さて、上海からの急行は、今日が最初の運転だといふことを、私の隣に偶然坐つてゐた見覚えのある将校から聞かされた。見覚えがある筈である、これこそ、学校時代に一級上だつた佐藤氏で、今日は、同氏が采配を振つてゐる鉄道部隊の晴れの日なのである。
 やつとこゝまでに仕上げたのだといふ、破壊された鉄路の困難な修復工事について、一席、苦心談にちよつぴり手柄話を交へた、朴訥で至誠のあふれた話を面白く聴く。幾日でやると云つたら、出来ても出来なくてもやる。兵隊には無理を云つてろくに休ませない、作戦の必要からだ。ところが、しまひにそいつが当り前のことになるんでねえ、と、隊長は、兵隊が可愛くてたまらぬといふやうなしんみりした顔をしてみせる。満洲、北支、中支と、殊勲を樹て続けの、この軍用鉄道の権威は、敵が外した路線材料を、何処へ匿して逃げたかをちやんと知つてゐるのである。苦力を集めてさつさと引き出させるのだから、相手にとつて始末がわるいといふべきである。
 なるほど、急行は二時間で蘇州へ着く。
 例によつて特務機関のお世話になる。市政府、省庁へ儀礼的な訪問。有名な獅子林公園に失望し、近頃評判のわるい寒山寺が、どうして、俳味豊かな名刹として私を三嘆せしめた。規模の小なること、荒れ果てたまゝになつてゐること、バックの貧しいことは、改築の年代がごく新しいといふ事実とともに、この稀にみる清楚な寺院建築を、支那人のみならず、事変後続々と訪れる同胞たちに一顧の価をも感ぜしめないであらう。軒は既に傾き、瓦は剥げ落ちてゐる。生ひ茂る夏草の生ひ茂るまゝなのが却つていゝ。色褪せた壁の朱の、立ち枯れた並木の細い枝間に、寂然と光ある如くである。

     南京一瞥

 蘇州では名所見物が主であつたが、私はそれよりも、こゝへ来てはじめて落ちついた支那の街といふものに接し、民衆の日常生活の一端をのぞくことができたのをうれしく思つた。
 殊に、出発の朝、同地駐屯の同期生平野がお手のものゝ○○艇を用意して、城外を繞る蘇州河の一部を走らせてくれたことは、この有名な運河の性質をのみ込むうへに非常に役に立つた。
 大小無数の船が或は動き、或は止まつてゐる。その間を縫つて行くわれわれのモーターボートはすべての静けさを破る点で、およそ場所違ひのやうに思はれた。どの船からも支那人の顔がのぞいてゐる。街で出会ふ顔よりも一層底の知れぬ表情であつた。
 わが警備兵が乗り込んで物資の輸送に使つてゐるらしい船もあつた。
 汽車の沿道で、畑ばかりの続いてゐるなかに、ひよつこり船の帆が浮び出ることがある。「クリーク」といふ名は何時か呪はしい響きをもつやうになつたけれど、この大陸の平和な生活は、なるほど水の旅とはなしては考へにくいものである。
 しかし、現在これらの水路は、所謂敗残兵の出没甚だしく、支那人は「税金」を払つて難を免れるといふことである。
 いよいよ南京に着いた。
 旧王城の遺跡と新開都市の面目とを雑然と混へたうへに、戦乱の余塵未だ消えやらぬ荒涼たる一角を残して、南京は、今、私の眼の前にやゝふて腐れ気味な姿を横へてゐる。
 蒋介石の企図した近代国家建設の夢が、どの程度に実現されてゐたかを知るのには都合のいゝ場所だとは思はれたが、それよりも、事変前は百二十人に過ぎなかつた邦人の数が、軍人軍属を除いて今では三千八十一人に達してゐるといふ話を聞いたゞけで、私は現実の歩みの速いことに気がついた。但し、占領以来十ヶ月の今日、やつと、中学が一校、その授業を開始したといふ事実は、復興を語るうへに見逃してはならぬ現象である。
 序に代
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