。地形の関係で外界との連絡がまつたく途絶えてゐるためであらう。
 さうかと云つて、これから前へ進めば、占領直後の騒然たる街の姿は嘗て北支の旅行で経験したやうに、眼に多くの刺戟は与へるであらうが、表裏様々な民衆の生活様相は見るすべもない。況んや、かの敗残兵のいくぶん計画的とも云はれるゲリラ戦術とはどんなものか、それを見届けるためには、少し後方の辺鄙な地点を選ぶに如くはないと気づき、私は、一旦南京へ引返した。
 南京警備の部隊の幕僚で、旧知の三国氏にその管下の部署並に一般状況の説明を聴き、更に、同地駐屯の××部隊長たる同期生山崎、大熊両君を訪ねて、雑談のうちに分屯警備地区の特徴を詳細に知るを得た。
 私の決心はついた。翌朝の急行で南京を発ち、鎮江から船で揚子江対岸に渡つたのである。
 十月二十日から三十日まで、楊州に止まつて、私は予定どほり、中支に於ける「隠れたる第一線」の実情を観察した。
 この間に、広東は落ち、武漢は陥ちた。
 輝やかしい戦果のあとにわれわれを待つものは、これこそ、国民の総力をもつて当らねばならぬ仕上げの事業である。日本のあらゆる精神的な能力がこゝで最も困難な活動を開始すべく準備されてゐる筈である。
 楊州地区は誠にこの問題について語るために誂へ向きの一例であると信じるから、私は今度の中支旅行の印象を誌すにあたつて、この地に於ける滞留十日の記録に重点をおくことにする。
 が、先づ順序として、足を上海におろしたところから始めよう。

 旅客機が博多から上海までを約三時間で運んでくれるといふことは、今日の航空知識をもつてゐるものなら誰でも想像がつくだらう。想像はつくが、実際さうであることを実験したら、誰でもちよつと驚き、うれしくなり、自分の手柄でゞもあるやうな錯覚をおこす。
 この種の錯覚に似たものが、若し私のこれからの記述のなかに現はれたとしたら、それは、私が日本人として生れたことの罪であるから許していたゞきたい。
 上海は、この地に働くある種の女たちに云はせると、長崎県上海市ださうだから、私など二十年前に、悲壮な気分で、天涯の孤客然と船をおりた記憶を恥ぢねばならぬ。
 さて、着陸場には軍報道部の馬淵中佐をはじめ、中山省三郎、火野葦平両氏、義弟の延原謙などの顔が見えた。延原の勤務してゐる同仁会の診療班長、瀬尾博士にも敬意を表することができた。廟行鎮、大場鎮などの、殆ど廃墟と化したあたりを、たつた今眼の下にみて、想ひを当時の凄惨なニュース面に馳せたが、この快晴の大陸の空を仰ぎ、沿道に蔬菜を作る同胞青年の甲斐々々しい姿を眺め、私の胸はふとある希望に和んだ。
 報道部で打合せをすませ、兵站宿舎である北四川路の東亜ホテルに落ちつく。前線と内地を往復する軍人軍属の足溜りに応はしい、簡にして要を得た宿舎である。支那人のボーイもゐれば、日本娘のサーヴィスも受けられ、帳場のお神さんはひつきりなしに電話にかゝり、食堂のテーブルには、三度々々クレオソートの瓶が出してある。
 ところが、厄介なことに、私は東京を出る時分から腰のあたりに小さな腫物ができて、どうもこのまゝうつちやつておけさうもないので、宿へ外科専門の瀬尾博士が寄つて下さつたのを幸ひ、その自動車で一緒に南市の同仁会病院へ連れて行つてもらつた。これは云ふまでもなく、軍と外務省の協力のもとに、支那難民の診療救済を目的に作られてゐる臨時の施設である。
 私は、有難く、友邦の難民諸君に混つて、博士の懇切な手当を受けた。これは余談だが、病院の廊下、各科の診療室には、老若男女の患者があふれてゐた。延原の説明に従へば、患者の数は日増しに殖え、しかも、その階級層、疾患の種類が目に見えて拡大されつゝあるとのことである。最初は極貧のものしか集まらなかつたのを、近頃では、宣伝が行き亘り、信用がつき、外国の類似の病院よりは一歩進んだものだとわかると、そろそろ、金を払はせてもよさゝうな手合がやつて来るやうになつたさうである。このことは後でも聞いたが、支那に於ける慈善病院の経営は、無料一点張りではその文化事業としての目的を十分に達し得られないらしい。つまり、彼等のうちで持てるものゝ面子を重んじる工夫が必要なのである。
 それと、もうひとつ面白い話は、病院を開いて数ヶ月の間、産科のお客さんが一人もなく、その係りのものは誠に手持無沙汰で困つてゐたところ、偶然ある患者が入院中お産をして、それが極めて安産であつたことを聞き伝へたものとみえ、それから以後、お腹の大きい訪問者が続々と押しかけるやうになつたといふのである。日本の産科技術をご存じないかと云ひたいところであらう。
 こんな呑気な話を吹き飛ばすやうな事件が、その日私の眼の前に展開された。
 一人の若い兵士が、下半身を鮮血に染めて、丁度私のはいつて行く少し
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