と羞みを交へた調子で告げた。「お砂糖だ」の意味であらう。すると、それをみてゐた別の女が自分の子供にもやつてくれと傍らの少年を頤で指す。今井君は、まだあつたか知らと云ひながら雑嚢を探つたがもう一つも残つてゐない。首を振つてみせると、母親と子供は恨めしさうに後ずさりをした。
急にまた銃声が盛んになりだした。しかしそれはもう可なり遠くであつた。喬野の攻撃がはじまつたなと、私たちは本部の後を追ふことにし、クリークの渡し場の方へ歩いて行つた。そこに一軒の茶店がある。老人が私の姿をみかけると、奥から盆に茶をのせて持つて来た。そして、同じ土瓶から別の茶碗に注いだお茶を自分で先づ一口のみ、毒見をしてみせるのである。心得たものだと思ひ、私は、ふんふんとたゞうなづいて、船のあるところへ降りて行つた。両岸へ綱を渡し、それを手繰るやうにして船を滑らせて行く、あの式である。向う岸へ着くと、そこに掘つてある散兵壕のなかに、敵兵の死体がひとつ、俯伏せになつてゐた。頭を奇麗にチックで分け、色の生白い、インテリ風の兵士であつたが、額を射たれ、片手で傷口を押へたものらしく、左手にべつとり血がついてゐる。帽子が落ちてゐる。服は便衣であるが、帽子は正規兵の青天白日の徽章をつけたものである。
支那軍は味方の死体を運ぶ暇がない時でも、その銃器だけは必ず取りあげて行く。こつちも敵の死体の身につけた弾薬はそのまゝにはしておかない。背負袋にはまだ相当の弾薬が残つてゐる。おまけに、「如意香」といふ化粧クリームの小罎が一つころがり出たのには、わが兵隊諸君も唖然として顔を見合はせた。
その時、右手にあたつて、高く煙のあがるのが見えた。右翼隊が敵の陣地を占領したものと判断し、それなら、これをまつすぐに行くと、敗走して来る敵にぶつかるなと、うろ覚えの地図を頭に浮べてみたが、なんとも見当がつかぬ。まゝよといふわけで、砲兵隊の敷設した地上の電線を伝ひ、部落のなかを抜けて行つた。こゝは流石に敵陣地の内部だけに、住民の動揺は甚だしかつたものとみえ、戸毎に荷物を外へ運び出して逃げ支度をしてゐる。恐らくからだゞけで逃げたものが大部分なのであらう。積みあげた家財道具の上に子供を坐らせ、その下にぼんやり蹲つてゐる老婆もあつた。道ばたの家を一軒々々のぞいてみる。逃げおくれた、或は逃げてもしかたがないと思つてゐるらしいいくらかの家族が暗い部屋の隅に、ひと塊りになつてぢつと入口の方を眺めてゐる。人の気配で悸える風もみえない。却つて、それをしほに起ち上つて片づけものなどしはじめる中年の女もある。笑顔をもつて迎へる用意はまだできてゐない。たつた一軒、急造の日の丸を軒先に掲げてゐた家がある。敵兵の死体もいくつか目につく。自分で傷の手当をするためズボンを脱ぎかけたまゝ呼吸絶えたらしい、さういふ死との格闘の生々しく想像される姿は、わけても眼をそむけたくなる。が、それも次第に馴れて来ると、手を伸ばせば触れるやうなこれらの事物が、悉く、戦場にある自分といふものゝ単なる心理的遠景としてぼかされてしまふのである。
今井君は銃に着剣して私のそばについてゐてくれ、私も万一の用心に拳銃を手に握つてはゐるが、どうも芝居じみてゐるやうな気がしてならぬ。油断といふのは、かゝる自意識の驕慢な不覚を指すのであらうか?
二人の俘虜
喬野に突入した部隊の主力は、更に敵を追つて五又港の陣地に迫つてゐるらしい。
喬野といふ部落は、相当大きな部落で、その中央にクリークがあり、これに渡してある橋は船の通る部分だけ取外すことができるやうになつてゐる。
敵はこの橋梁を破壊する暇がなく、その代り最後までこゝで抵抗を続けたのである。
私たちがこの部落にさしかゝつた時は、味方の砲弾が時々頭上を超えて飛ぶ唸りが聞えるだけであつた。
橋の上から左の方を見ると、クリークの幅がぐつと広まり、湖のやうになつてゐた。地図をみると、やはりそれは愛菱湖といふ名がついてをり、例の邵伯湖の一部なのである。
狭い通りの両側は、何れも小さな田舎町の店であるが、もちろん戸を固く鎖した家が多く、たまにひよつこり顔を出す男などがあると、こつちがギヨッとするくらゐである。
人家か疎らになり、乾田がまた続く。路ばたに一人の若い男がその父親らしい老人を背負つたまゝ腰をおろして休んでゐる、休んでゐるといふよりもへたばつてゐる恰好である。恐らくみなと一緒に逃げるつもりで此処までやつて来たのだけれども、もう脚がつゞかぬといふわけなのであらう。
さういへば、私も可なり疲れてゐる。もうどれくらゐ歩けばいゝのかと思つてゐると、向うから伝令がやつて来て、部隊本部はすぐに喬野へ引上げて来るから、そこで待つてゐるやうにとのことであつた。
空が美しく晴れて、野の花がそここゝに咲
前へ
次へ
全40ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング