危険を敢て懼れぬといふ面魂でもなかつた。宙をさ迷ふその眼付、かすかにふるへる頬の筋肉、物言ひたげな唇の動き、そして、時どき家の方を振り返る無器用な身ぶりは、この人物の肚の中のなにひとつを語らないにせよ、これは少くとも「敵」として取扱ふべき男ではないと考へられた。
 幸ひにして桂班長がやつて来て、この男にこんな用事をいひつけた。
「お前はこれからこの部落の人間を全部こゝへ呼び集めろ。みんなに云つてきかせることがあると云へ。若し出て来ないものがあつたら、日本軍はその家を焼き払ふからと、さう云へ」
 どうするかと思つてみてゐると、その男は急にホツとしたやうな笑顔を作り、首をなんべんも振り、いそいそと出掛けて行つた。しばらくすると、近くのものがもうそこへ集まつて来た。広い耕作地を区切る四方の森のかげから三々伍々、老若男女の姿が現はれ、畔道伝ひに、いづれも急《せ》かず慌てず、殆ど一定の距離をおいてつながつて来るその光景は、またとなく珍しく、なにかお祭りのやうな粛然とした華やかさであつた。
 私がそれらの村民の一人々々を、そしてまた、彼等が互にそこで落ち合つて挨拶を交す有様を見ようと思ひ、集合の場所と定めた裏の空地へつゝ立つてゐると、来るもの悉く、また集合かと云はぬばかりの馴れきつた調子で、相手をみつけては何やら喚く。なるほど老若男女とは云ふものゝかうしてみると、屈強な青年と年頃の女は一人もゐない。なかには純然たる農夫ではない、云はゞ職人といふやうなタイプの男もゐて、これが目立つ。私の袖に巻いた腕章をわざわざのぞきに来て、字が読めるといふところを見せたがるものがある。「従軍作家」なる文字をなんと解したであらう。
 突然、私の耳もとで女の声がする。それは怪しげな発音ではあるが最初のひと言で日本語だといふことがわかり、私はその女の顔を見つめた。三十そこそこの、色は黒く日にやけてゐるけれども、どことなく小ざつぱりしたおかみさんであつた。
「ほう、あんたは日本語が話せるのか」
 と、私は不必要な念を押した。
 彼女は、下町風なからだのこなしよろしく「わたし、上海で日本人のところにゐました。日本の兵隊さん来てくれて、大へんうれしい。みんなよろこんでゐる」
 とのこと、私は、それにかまはず、
「上海でどういふ日本人のところにゐたの?」
「船の会社……わたしの主人、船の会社……えへゝゝゝゝ」
「あゝ、さうか、あんたの御主人が日本人で、船の会社をやつてゐるんだね」
「いえ、さう、わたし、一と月前にこゝへ来た。またすぐ上海へ帰る。戦争困つたね」
「ふむ、さうすると、あんたの両親の家が此処にあるわけだね」
「わたし、一人、こゝにゐる。誰もゐない。旦那さん死んだ」
「おや、さうか。なんだかわからなくなつた」
 今度は私の方が笑ひにまぎらして、この女との会話を打ち切つた。
 ほゞ揃つた時分を見計つて、桂班長は、小高い土くれの上に立ち、一同をその前へかたまらせた。五六十名もゐたであらうか? クリークの渡し場附近には、まだ老人達が五六人、素知らぬ顔をして立ち話をしてゐる。
 桂班長は、努めて威容を示すといふ態度で徐ろに口を開く。お得意の北京語はこゝでは十分に通じかねるため、傍らにやはり通訳をおき、ところどころ、その通訳が土地の言葉で云ひ直すといふやり方であつた。
 予め刷り物にしてある堂々たる宣言文が、ほゞ、そのまゝの形で伝へられるらしく、村民たちは、首をかしげて一語一語に聴き入つてゐる。こゝでもまた意外に活溌な反応をみせる群集の特異な性格をみることができた。が、最もお世辞のいゝ聴き手の一人は、あとで調べてみると、大工であつた。この男は、これからこの部落に自警団を作るについて進んでこれに加はるものはないかといふ桂氏の声に応じて、まつ先に一歩前へ進み出た。そして、あとは誰れかれと自分で物色して立ちどころに団員を任命した。「おれはからだが弱くて」と尻ごみをするらしい一人の青白い男も、しぶしぶ仲間入りをした。
 さて、これらの自警団員は、今から手分けをして、わが軍の布告ビラを辻々へ貼りに行くのであるが、再び此処へ支那兵が侵入して来た時、果して如何なる処置をとり得るか、治安工作の眼目はこゝにあるのである。
 解散はしたが、その場でうろうろしてゐるものが多く、子供を連れた母親など、演習に来た兵隊を見物するやうに、われわれのまわりを立去らうとしない。当番の今井君は、一人の女の腕に抱かれた赤ん坊の手に、雑嚢から角砂糖を出して握らせた。赤ん坊はそれをすぐに口もつて行かうとしない。そばに立つてゐるその姉らしい八九歳の少女が、今井君の次ぎの動作を見守つてゐる。今井君は、これにもひとつ与へた。少女は、こわごわそいつを舌の先で舐めてみた。そして、急に、母親の顔を見あげ「タン、タン」と、驚き
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