、余念なく種を蒔いてゐるのである。
 これこそは、まさしく、神秘な風景である。如何なる分析もこの厳粛な魂のすがたを説明するわけにはいかぬと思ふ。これはたゞ、ひとつの単純な事実に違ひないけれども、私を深い瞑想に誘ひ込んだ。
 銃声がはたと止んだ。なんの意味かわからぬけれども、私は前へ出なければならぬといふ気がした。
「鉄兜をおかぶりになりますか?」
 今井君の声がうしろでする。
 さう云へば、妙なもので、今まで弾丸のうなりを聞きながら、こいつがあたるとすれば、いつたいおれのからだの何処へあたるだらうといふことだけが気がゝりであつた。そして、頭さへやられなければといふ考へが、ぼんやりしてゐた。
 鉄兜を受けとつて、被り方を教はりながらそいつを頭へのせると、どうしてこれは相当に重いものである。子供の時分、祖父の家で悪戯に古い冑をかぶつてみた、あの記憶がふとよみがへり、をかしくなつた。と、その時また、左手の方から銃声が聞え、気のせゐか弾丸が近くなりだしたやうに思つたので、狙撃されてゐるなと、心の中で感じながら、私は夢中で駈け出した。
 そこはやはり人家が二三軒ひと塊りになり、すぐその向うを幅二十米ほどのクリークが流れてゐる。味方はもう既にそのクリークを渡つて、猛烈な追撃にうつゝてゐるのである。
 対岸には堅固な陣地が築いてある。渡し場には舟が一艘向ふへ漕ぎつけた儘になつてをり、その附近の人家は、銃眼を穿つた高い墻壁にとり巻かれてゐる。
 辿りついた農家は、母屋と納屋に分れ、たつた今腹部に敵弾を受けて倒れた一軍曹を母屋のなかに寝かせたところである。
 応急手当――仮繃帯だけはしてあつたけれども、腹部の貫通銃創にちがひないと私には思はれた。
 私はその傍らに近づいて脈を取つてみた。彼は閉ぢた眼を静かに見開いた。別に苦痛を訴へる風はない。脈も割にしつかりしてゐる。
「血がどんどん出てゐるやうな気がしますが、ちよつと見て下さい」
 胸をひろげて、私は、繃帯のあたつてゐる部分を検めた。僅かに血が滲んではゐるけれども、別に流れ出てゐるやうな様子はないので、
「大丈夫ですよ。もう血は止つてるぢやありませんか。服がよごれて気持がわるければ、かうしておきませう」
 私は、服の内側の背中にあたるところへ自分のハンケチを押し込んだ。
 早く後方へ運べばいゝのだらうが、生憎さういふ人手はないのである。
 味方の主力はどの方向へ動いて行つたか? 霧がはれて来ると、遥か前方の道路上を、大隊砲の一隊が前進するのが見える。敵の退路へ退路へと迫るわが攻撃作戦の効果が察せられる。時計を見ると八時三十分。

     部落の住民たち

 それにしても、さつきからの激戦に、わが損害はたゞ一人の負傷者だけかと、私は、不思議なおもひであたりを見廻した。ほかに倒れてゐる兵隊の姿はかいもく見当らない。
 対岸の人家のかげをうろうろしてゐる支那人の姿が眼につく。なんとなく怪しげな挙動とも思はれるが、まさか敗残兵ではあるまい。
 桂班長がこの部落で「宣撫」をやるから見てくれと云ふ。もちろん望むところであるから、私もお手伝ひすると答へた。
 先づその前に朝食をといふことになり、今井君は私の飯盒をおろしてくれる。
 と、その時、一人の支那人がひよつこりと私たちのゐる家の裏手に現はれ、家のなかをのぞき込んで何やらぶつくさ云つてゐたといふので、一人の兵隊が、こいつ怪しいとばかり引つ捕へて連れて来た。通訳に調べさせてみると、この家の主人だといふ。病人があるので医者を呼びに行かねばならぬが、その前に病人の様子を見に来たのだ。その病人は何処にゐるかと問ふと納屋を指さした。なるほど、一人の老人が蒲団にくるまつて寝てゐる。こつちの返事も待たず、もう何処かへ行かうとするので、兵隊は許さない。
「こら、待て」といふわけで、もう一応この家の主人であることをたしかめるために「茶があれば出せ」と命じてみる。彼は黙つて戸棚を探しにかゝるが見つからない。ビラを貼る糊を作る用意をしろと云ひつけるが、それもすらすら運ばぬ。「こやつ、どうも臭いですよ。どつちみち敵と通じてゐた奴に違ひない」といふことになる。それはしかたがないとして、両手を縛りあげられ、銃剣を擬せられても、彼は平然として、一向に怯む気色がない。まことに図々しくしらばくれてゐる風であり、「どうでも勝手にしろ」と空嘯いてゐるのだと見れば見られるのである困つた代物である。兵隊もこれにはやゝ持てあまし気味で、なんとかひと言上官の命令さへあればといふ顔付が私にはありありと読みとれ、風前の燈火に似たその男の命を誰が救ひ得るであらうと、ぢつと彼の表情に注意してゐた。
 巌丈な体格の、四十になるかならぬかといふ年配のその男は、しかし、身に迫る危険を知らぬ筈もなく、また、その
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