は凜然と闇の中に響く。隊長は窓に顔を近づけて、ぢつと歩哨の姿に見入る。
「ご苦労」
 沿道には明りといふものがまつたく見えず、犬がしきりに啼く。
「敵はもう勘づいてるでせうね」
 私は隊長の顔をみた。
「むろん勘づいてます。たゞ、部隊の移動方法を複雑にして、作戦の主要な点を覚らせないやうにすればいゝのです」
 やがて小さな部落にはひると、そこが軍工路守備隊のゐるところで、今日の攻撃の左翼隊指揮官斎藤○尉が、本部の到着を待つてゐる。
 道路の片側に叉銃休憩してゐる一隊がわれわれと共に、これから進発する部隊だといふことがわかる。
 農家のひとつが守備隊の本部宿舎にあてられてゐて、急造の寝台に支那風の蚊帳が吊したまゝになつてゐる。石油ランプの光りの下で、熱い茶をいつぱい飲み、小声で何やら囁いてゐる隊長と、それに耳を傾けてゐる斎藤○尉の緊張した表情をぼんやり眺め、私は努めてこれらの人々の邪魔にならぬやう心掛けねばならぬと思つた。
「さあ、出掛けませう」
 隊長に促されて私は外に出た。
 乗馬が三頭、そのうちの一頭は私の分である。前もつて歩くのは駄目だと断つておいたので、かゝる分に過ぎた待遇を許されたのであつた。
 隊長の後に続いて、手綱を引きしめながら行く。あちこちで犬が一斉に吠えたてる。尖兵が軍工路を右に外れた。乾田のなかの畔道を、本部の一隊は踵を接して進む。道は凹凸がはげしく、その上、ところどころに溝があり、馬は時々足をすべらして乗心地はあまりよくない。
 月が落ちて、暗さが増し、視界はまつたく利かぬと云つてよく、わづかに、前方の森の頂が夜空に浮いてみえる。銃声が二三発聞えた。
「なんでせう、あの光りは?」
 私が瞳をこらすと、誰も答へるものはない。むろん敵の信号である。敵の歩哨線が近いことがわかる。
 クリークに沿つたやゝ広い道に出た。ちよつとした部落である。人が住んでゐるのかゐないのか? 明りの漏れてゐる窓などはひとつもない。こゝで部隊は一時止つた。予め偵察の行はれてゐる渡河点なのである。
 私は隊長の後ろから狭い露地をぬけてクリークの岸へ出てみようとした。
「危いです」
 隊長は私を制した。この瞬間、すぐ目の前に岸から銃声が起つた。
「そこに敵がゐるんですよ」
 しかし、この渡河点は、船の利用ができないために変更しなければならないことになつた。岸に揚げてある船は大きすぎてどうにもならないことがわかつたのである。
 左翼隊の行動はこゝで一大障碍にぶつかつた。斎藤隊長は新たな情況によつて、進路を右に求め、敵前のクリークを泳いでゞも渡る決心であるといふことを小川部隊長に報告した。
「よし、やれ!」
 移動がはじまつた。
 夜はほのぼのと明けかけ、暁天の星の瞬きが美しい。闇の帷は朝霧の幕に代つて、自然の色彩が徐ろに万物の眼ざめの姿を浮きださせる、あの荘厳な一つ時である。
 私にとつてはまつたく不意に、殆ど側背と思はれる方向から盛んな銃声が起り、頭上をかすめて、ピユッピユッと弾丸が飛んで来だした。噂に聞くチエッコ機関銃の音も交つてゐる。
 こつちの部隊はそこで戦闘隊形を整へた。私たちは馬から降りて姿勢を低くした。が、私のそばにゐてくれる筈の小川部隊長は、事態容易ならずと察してか、乗り棄てた馬を更に呼び寄せて悠々これに跨り、戦闘部隊のなかへ飛び込んで、自ら部下を督励しはじめた。
「まだまだ射つちやいかん。敵の弾丸は高いぞ。前進だ、前進だ」
 百米でもうその姿は見えなくなるやうな深い霧であつた。
 おくれるのは仕方がないとしても、部隊とはぐれては困るので、私は、当番の今井君に眼くばせしてぢりぢり前へ出た。桂班長も、配下の通訳ほか数名を引きつれてやつて来た。
 隊長の大声叱呼する声が次第に遠くなる。味方もやつと射撃を開始したらしい。
 が、さつきから、前方の銃声とは別に、私のすぐ左二百米以内に敵がゐて、しきりにこつちを撃つてくるやうな気がしてならぬ。銃声はそれほど近く、しかも、そつちから来る弾丸が私たちの頭上を超えて右側のクリークに沿つた楊柳の枝をばらばらと落してゐるのである。
 敵味方の銃声が入り乱れるなかに、伝令の息せききつた声が耳にはひる。
 すぐ逃げると思つてゐた敵が、何時までも頑張つてゐるので、私は少し焦れつたくなつた。なるほどかういふ奴もゐるのだなと、はじめて正規兵なるものゝ馬鹿にならぬことに気がついた。
 私は稲を刈りとつた乾田の、露に濡れた土の上に腹這ひになつてゐる。せめて畔道を楯にからだを隠さうと思ふのだが、なかなか起ちあがる機会がない。やつと顔をあげて左右を見渡してゐるうちに、つひ百米ほどはなれた畑のなかに、霧でぼんやり包まれた百姓女の姿を発見して、私ははツとした。彼女は、片手にザルを抱へ、前こゞみの落ちつき払つた姿勢で
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