撫といふのは、そんなに危険なところまで行くんですか?」
「いや、さうまでしなくてもいゝですが、この隊長が連れて行かんと承知せんのでしてね。しかし、占領後すぐといふのが一番効き目があるんです。住民の気持がまだ動揺してますからな。なに、どうせ、国家に捧げた命です。覚悟はしてゐます。たゞ、われわれは仕事の性質が違ふだけです」
桂五郎氏は、満鉄の副参事とかをしてゐた人で、特に事変中軍の嘱託として中支へ派遣されたのださうである。
夕方になつて、出発が午前三時に変更された。副官の注意で私は一と息眠ることにした。
払暁戦
午前二時半起床。本部附の平野氏が私に拳銃を持つてゐるかと問ふので、持つてゐないと答へると、それではこれを貸してあげると云つて誰かのを一挺捜して来てくれる。私はその必要はないと思つたが、折角の好意であるから腰へぶらさげて行くことにする。
非戦闘員である以上、戦闘に参加するのではないといふことを飽くまでも考へなければならぬ。たゞ、私は、敵の退却したあと、そのへんの住民たちが如何なる態度をもつてわが軍を迎へるか、また、それらの住民たちに対して、わが軍がどんな処置をとるかといふことを、現実に目撃したいのである。
なほ、そのうへ、情況がゆるせば、所謂、彼等の戦闘能力、殊に、最も統制のとれてゐるらしいこの方面の残敵の抵抗度を素人の眼ながらほゞ観察しておきたいといふのが、この討匪行に加はる私の目的であつた。
そこで、参考のために、当日の作戦命令をみせてもらふ。
○○地区○○部命令
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一、邵伯鎮北方敵正規軍ハ近日来兵力ヲ増加シ喬野(邵伯鎮東方六吉)陳家甸附近ニ盛ニ陣地ヲ構築シアリ
其状況並ニ地形別紙攻撃計画要因ノ如シ
二、地区隊ハ楊州西北方地区討伐ニ先タチ該敵ヲ殲滅セントス
攻撃計画概要別紙要図ノ如シ
三、奈良○尉ハ部下歩兵○○隊、邵伯鎮予備隊ノ歩兵○○隊、在○○機関銃○隊大隊砲○隊(○○隊欠)ヲ併セ指揮シ右翼隊トナリ十月二十二日六時三十分渡河シ別紙要図ノ如ク陳家甸ノ敵ヲ背後ヨリ急襲シ陳家甸局地ニ於テ其ノ増援隊ヲ併セ一挙殲滅スヘシ
堀内軍医並ニ○号無線○機ヲ属ス
四、斎藤○尉ハ部下歩兵○○隊半機関銃○○隊大隊砲○○隊ヲ併セ指揮シ左翼隊トナリ十月二十二日六時三十分渡河シ各一部ヲ以テ速カニ載家渡及喬野橋梁ヲ占領シ退路ヲ遮断セシムルト共ニ主力ヲ以テ将軍※[#「广+苗」、第4水準2−12−7]局地内ノ敵ヲ捕捉殲滅シタル後喬野ノ敵ヲ攻撃撃滅スヘシ
久田軍医及○号無線○機ヲ属ス
五、討伐後五又港――喬野道及喬野附近全橋梁及陣地ハ完全ニ破壊シ敵ヲシテ喬野以南地区ニ再ビ出動シ得サラシムルヲ要ス
六、○砲兵第○○隊ヲ指揮シ十月二十一日夜半「トラツク」ニ依リ楊州出発軍工路守備隊附近ニ至リ陣地ヲ占領シ七時三十分以後命ニ応シ喬野陣地ヲ射撃シ得ルノ準備ニ在ルヘシ
七、合言葉○○――○○
標識 国旗ヲ高ク左右ニ振ル
要スレハ喇叭「大熊部隊」
夜間ハ懐中電燈ヲ以テ円ヲ描ク
八、各部隊ハ通例ノ弾薬ノ外朝昼食携帯口糧一食分ヲ携行スヘシ
九、予ハ左翼隊ト行動ヲ共ニス
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[#地から2字上げ]○○地区○○部隊長
以上の作戦命令により各部隊それぞれ行動を開始した。
偵察による敵の兵力は、推測し得る増援隊の兵力を除いても、優に我れに倍するものであることがわかつてゐた。
私はこの大胆な攻撃計画が、小川部隊長の自信の発露とみて、その成功を疑はなかつた。
やつと服装を整へて二階のヴェランダに出た。
月明に照し出された楊州の街は、静かに眠つてゐる。寒いといふほどではないが、夜気しんしんとして身に沁み、拍車をつけた靴が重い。
副官は、その当番の今井一等兵を私のために特に本部一行のうちに加へてくれる。
今井君は、偶然、東京の私の住ひを知つてゐるといふ。わけを訊くとその筈である。伯父さんが西荻窪の金物商で、同君はその店でずつと働いてゐた青年なのである。
「弁当と鉄兜は私が持つて参りますから」
「どうもありがたう」
小川隊長は、私に、寒ければ自分のマントを貸さうと云つてくれたが、私は内地を出る時義弟の吉田大佐から古い将校マントを貰ひ受けて来てゐるので、それを出して着た。
本部の前には自動車が用意されてゐて、私は隊長と同乗を命ぜられた。桂班長も同じ車であつた。
城門を出ると、邵伯鎮に通ずる一直線の軍工路が続いてゐる。こゝにも所謂国民政府の軍事施設が及んでゐるのである。途中、大きなクリークにかゝつてゐる立派な橋を二つ越えた。いづれもわが軍の歩哨が立つてをり、隊長の車はその前を徐行して親しく敬礼を受けるやうになつてゐる。
「異状ありません」
歩哨の声
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