いてゐることにはじめて気がつく。
私はしばらくそこに立ち止つた。うらゝかな秋の日ざしに蘇る田園の風景が、常にも増して心に沁みる。なぜかこの時、我が家の庭の木犀の香ひを想ひだした。
やがて、小川部隊長を先頭に、本部の一隊がこつちへ帰つて来るのがみえる。私は、思はずそつちへ歩きだした。何よりも隊長以下の無事をよろこぶ気もちであつた。その時隊長に向つて私はなんと云つたか、今は記憶にない。たゞ、こつちの損害はどれくらゐであつたかを訊ねたことだけはたしかである。
「一人やられたきりです。あゝ、さう云へば内田軍曹はもう駄目だらうな」
と、小川部隊長は傍らの誰かに云つた。
誰も返事をしない。で、私は、
「腸を外れてゐさへすればいゝんだが……」
と、ひとりごとを云つてしまつた。
「今日は案外手間どりました。おまけに、はじめと少し計画を変へたもんだから、あなたをとんだ目に遭はせてしまつて……」
隊長は笑ひをふくんで私を顧みた。
「いや、却つて得難い経験をしました。それにしても、弾丸はなかなか中らないもんですね」
「さうでせう、敵は狙つてなんぞ射つてはゐません。だから、弾丸がみんな高い。馬に乗つてゐてさへさうです。だから、弾丸が低くなつて来れば、それに応じて姿勢を低くすればいゝ。これは馴れないとわかりません。たゞ、わたしがマントを着てゐたもんだから、馬からおりると弾丸が集つて来た」
「さうですか。僕もマントを着てゐましたが途中で脱ぎました」
「まつたく済まんことをしました。万一のことでもあつたらと心配しましたよ」
「そんなご心配はいりません。が、僕も始めからこんなこともあらうかと覚悟してゐました。ところで、兵隊はなかなかみんな勇敢ですね。頼もしい気がしました。かういふ戦《いくさ》だから、却つて隊長は気をおつかひになるでせう。まるで演習そつくりぢやありませんか」
私は率直に感じたことを云ふと、
「今日はわたしは直接に指揮はとらないつもりでしたが、つい情況がさうさせたのです。こゝでは、教育しながら戦《いくさ》をするといふ立前を厳格に守つてゐます。それでなければ長い戦争には勝てません」
本部の一行のなかに、後ろ手にしばつた捕虜を二人連れてゐる。
「これは兵隊だといふことはたしかなんですか」
私は、その捕虜の綱をもつてゐる兵士に訊ねた。
「はあ、たしかであります。そこのクリークの中へ首だけ出して匿れてゐたのを見つけたんであります。便服ですし、はじめどうしてもほんとのことを云はなかつたですが、しまひに自分で匿した銃の在りかを教へました。それと首に軍隊手牒をぶら下げてゐましたから、もう間違ひはありません」
それから、一人の将校が、
「敵の逃げる時はきつと住民も一緒に逃げるもんですから、後ろから射撃するのにとても厄介なんです。住民を殺すまいと思ふと、つい敵を射ち損ひますから……」
「だから、かういふ部落で宣撫をする時は、日本軍が攻めて来ても、決して支那兵と一緒に逃げてはいかんと云ひふくめておきます。逃げる奴は命の惜しくない奴だ」
隊長はさう附け加へた。
「今日の戦果はどうでしたか?」
私は訊ねた。
「えゝ、まあ、大体……」
と、隊長は、敵を追ひ払つただけでは満足しない様子であつた。
喬野部落にさしかゝると、一人の老婆がおいおい泣いてゐて、その傍らに二三人の男女が声をひそめて話し合つてゐる。通訳がわけを訊くと、その老婆の家が今焼けてゐるのだが、それは日本兵のやつたことか支那兵のやつたことかわからぬと云ふのであつた。
「日本軍は決してそんなことはしない。少くとも今こゝにゐる日本の兵隊は、罪のない住民の家を焼き払ふやうなことはないのだ。多分、支那軍が弾薬庫にでも使つてゐて、逃げる時に火をつけて行つたのだらう」
隊長のその言葉は老婆の耳へははひらない。手ばなしで、それこそ子供のやうに、涙を流して泣き喚くばかりである。
「こつちの砲弾はこのへんに落ちるわけはないし、いつたいどこの家だ?」
住民の宣撫といふことに心をくだいてゐる隊長は、かういふ訴へを聞き流しにできぬとみえ、その燃えつゝある家の前に立ち寄つて、中をあらためさせた。
「敵の大隊本部にでもなつてゐたのかな」
さういふ目的に使用された家屋は、将来のために焼きすてろといふ秘密命令でもでゝゐるのか?
骨組だけが残つて、内部はまつたく形をとゞめぬくらゐ丸焼けである。ポンとなにかの破裂する音がした。
「危いぞ。気をつけろ」
誰かゞ注意した。中にはひつて行つた兵隊が靴を真つ黒にして出て来る。臭い臭いといふ顔をし、なんにもないと首を振つてみせた。
「それぢや、災難として、いくらか婆さんに見舞をやつとけ」
と、隊長は、主計に命じてゐた。
本部の休憩所がきまり、昼食の支度である。
「あな
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