合せに、彼等はあらゆる一挙手一投足に難くせをつけかねないのである。
 そんなことはちつとも苦にするには当らないと云へば云へる。何時かは彼等にわかる時期があるだらうと、日本人なら云はねばならぬところであらうけれども、支那に関する限り、私は、なんとかしてわれわれが最後までともに手をつなぐべき唯一の国民であることを一日も早く彼等に知らせたい。それがためには、如何なる方法を講じても、両国民に共通の言葉、共通の表現を探さなければならぬ。日本人がよき日本人であり、支那人がよき支那人であるといふことは、最も多くの相通ずる美徳、相容れる性格をもつことだといふ真理を認め合ふことが第一の問題である。
 事変は既に建設の時代に入つたといふ。それなら、われわれ国民の力は、そこへ伸びて行かねばならぬ。道を拓くのは何人の手に俟つべきであらうか。

     上海租界について

 汽車から降りると、私は重いリユックを背負ひ、両手に若干の荷物を提げて長いガードを渡つた。人混みのなかで、義弟の延原が私を探してゐる。それで助かつた。
 報道部から自動車を差向けてもらひ、宿を何処かに取らうと思つてゐると、報道部に部屋があいてゐるから泊れと馬淵中佐に勧められ、さうすることにした。飛行機の便を得るまで、二三日は此処で待つてゐなければならぬと聞き、その二三日の利用方法を考へたが、私もさすがに疲れを覚えて、街を歩くのさへ億劫であつた。憲兵隊の通訳をしてゐる私の教へ子、明治大学文芸科の卒業生山崎晴一君のところへ電話をかけると、早速飛んで来てくれた。
 この前寄つた時には充分時間を割くことができず、ゆつくり話す暇もなかつたので、何処かで飯でも食ひながら彼の手柄話でも聞かうと思つた。
 同仁会病院と憲兵隊、この二つの日本の姿を私は上海といふ都会のなかに描いてみる。例へば、外国租界に巣喰ふ抗日テロリストの眼が何に向けられてゐるかといふことを想像するだけで、現在の上海が日本の如何なる表情にも無関心な、あるふてぶてしい身構へを示してゐるといふ気がする。
 英仏租界の人口が事変前よりぐつと増してゐる事実は何を物語るか?
 私は山崎君の案内で、英仏租界を昼と夜と二度見て歩いた。日本人の立入りを禁止してもゐないし、どんな場所へ足を踏み入れても別に不安を感じるやうなことはない。白人の店で買物をしたが、店員は普通の客としてわれわれをあしらふことはもちろん、支那人経営の料理屋でも、特にこつちを凝視する眼さへ感じないくらゐである。そのくせ新聞の売子が夕刊を売りつけに来るのを買つてみると、麗々しく反日記事が掲げてある。
「新申報」といふ親日新聞は、この租界ではさつぱり売れないさうである。尤も、民衆が自発的に読まないのではなく、漢奸の名を着せられることを懼れてゐるのだといふ話である。
 上海のことはもうだいぶん内地にも知れわたつてゐるから、私は詳しく書かない。たゞ、将来はいざ知らず、今日までの情勢からみて、この都市の解剖こそ、支那事変の複雑な相貌を白日下にさらすものだと思ふ。
 所謂抗日テロリストの群はしばらく措き、かゝる直接運動に参加してはゐないが、しかし、もつと先の方を視てゐる支那知識層の個々の動きといふやうなものを、どういふ方法かで知りたいと思つたが、それは今はまだその時期でないやうである。

     報告を終るについて

 十一月二日、福岡へ飛ぶ。日本の空だなと思ふ瞬間、私はふと胸に熱いものを感じて、窓に顔を押しあてた。
 唐津のあたりが眼の下に見える。
 入江には漁船が走り、畑は耕され、田は実のつてゐる。裾を引いた山襞の間に、白く光るのは谷川の水であらう。
 それぞれに、父を、夫を、兄を、息子を戦場に送り出した家々が、あちこちにみえる。ひと目でそれとわかるのは、時局下のきびしい風景である。しかし、そのきびしさは、豊穣な土地の眺めのうちに溶け込んで、黙々たる微笑の如きものとなつてゐる。
 福岡で上りの寝台を求めようとしたら、その日のは無論、翌日の分もすつかり売り切れであつた。そこで、思ひついたのは、私が嘗てゐた久留米の連隊をちよつとのぞいてみたらといふことで、実は、今、その連隊に同期の米良が大隊長として召集されてゐることがわかつてゐたからである。
 早速、その当時はなかつた急行電車で、筑後平野を縦断した。
 幼年学校を卒業して士官学校へはひるまでの半年と、士官学校を出てから任官後二年を過したこの久留米といふ町は、なにかにつけて想ひ出の多い町であるが、連隊の兵舎も昔ながらの面影を残し、衛兵所の上へ枝をひろげた榛の木にもたしかに見覚えがあつた。
 わけても、将校集会所の食堂は、多少趣きは変つてゐたが、もとの場所にもと通りあつて、時の連隊長や連隊附中佐のいかめしい顔がありありと浮ぶやうであつた。

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