至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かゝる美名のもとに行はれる日本の侵略を民族の血をもつて防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらゐの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。そこで、事変勃発以来、日本の朝野をあげて、われわれの真意なるものを、相手にも、第三国にも、亦、自国々民にも、無理なく徹底させ、納得させるやうに努めて来、また現に努めつゝあるのであるが、問題がやゝ抽象的すぎるために、国民以外の大多数には、まだ善意的な諒解が十分に得られてゐないやうである。
 これは考へてみると、わからせるといふことが無理なのである。なぜなら、日支の間に如何なる難問題があつたにせよ、それが戦争にまで発展するといふことは常識では考へられない。すなはち、民族心理の最も不健康な状態を暴露してゐるわけで、そのうへ、両国の為政者自らが、それに十分の認識があつたかどうかは疑はしいからである。戦争になつたことを今更かれこれ云ふのではない。戦争がさういふ危機を出発点とすることはあり得るし、戦争によつて、何等か打開の道が講ぜられる期待はもち得るのであるけれども、この事変の目的とか、性質とかを吟味するに当つて、これを意義ある方向へ導くための国家的理想と、その現実的な要素を分析した科学的結論とを混同することによつて、事変そのものゝ面貌があやふやな認識として自他の頭上に往来することは極めて危険である。
 欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変へて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、こゝで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があつたにせよ、支那に対するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?
 一見、彼の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでゐて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせてゐるのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によつて得られるかどうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、ちよつと首をひねりたくもなるわけだ。こゝにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出してゐるのに気づく。
 戦争をあまりに道義化しようとして、これを合理化する一面にいくぶん手がはぶかれてゐる傾がありはせぬか。主観的な聖戦論は十分に唱へられてゐるが、客観的な日支対立論とその解消策は、わが神聖な武力行使の真の行きつくところでなければならず、寧ろ、これによつてはじめて東亜の黎明が告げ知らされるのだと私は信ずるものである。
 そこで、いはゆる客観的な対立論とその解消策の第一項目として、私は、日支民族の感情的対立の原因の研究といふことを挙げたいと思ふ。事変そのものを挟んで、両国の運命は等しく重大な転機に臨んでゐるけれども、かゝる根本の問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。

     日本人の力について

 予定の日数を経過したので、いよいよ楊州を引あげることにし、私は出発の朝、旅館から部隊本部に出掛けて行つて、小川部隊長以下の諸員に暇乞ひをした。
「もつとゆつくり、いろいろなものを見たり、お話を聴いたりしたいのですが、これ以上、日本に帰るのを延ばすことができませんから、残念ながら、一旦お別れをします。都合がつき次第、もう一度近い将来に、此処へやつて来て、あなた方のお仕事の、一層進んだ成果を拝見したいと思ひます。これは国民の一人として、あなたがたに期待するところが多く、また個人としては、忘れ難い記憶をもつてこゝを去るからです」
 さういふ意味の挨拶を述べた後、門前まで諸氏の見送りを受けて、私は桂班長と共に自動車へ乗り込んだ。
 桂班長は、鎮江まで送つてくれるといふ。
 十月三十日、江南の秋はこれからといふ静かに晴れた朝であつた。
 鎮江の部隊本部で預けた荷物を受けとり、九時三十分、上海行の急行に乗る。
 わが軍人軍属によつて満たされた二等車の一隅で、私は、今度の従軍の目的がこれで達せられたのであらうかといふ不安な気持を懐きつゞけた。
 これらの日本人の壮んな往来が、この支那といふ土地にどんな足跡を残すか。後世の眼がどれほど厳しくわれわれの時代の責任を問ふても、われわれはそれに十分応へるだけの覚悟はしなければ
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