腰をおろすことにした。
 隣の卓子で中年の男が食べてゐる蒸し饅頭のやうなものを私も注文した。
 通路の片側には菊の鉢が一列に並べてある。
 老人の客が一人、茶を飲んでゐる。そこへ手提をもつた男が近づいて来る。床屋であつた。髭を剃らせはじめた。髭がすむと、その床屋は、今度は按摩になつた。肩から手、手から脚へ揉みおろす。老人は、椅子に倚りかゝつて、いい気持さうに居眠りをしてゐる。
 私は煙草を喫はうとした。給仕の男がコヨリの如きものを持つて駈け寄つて来た。そして、そのコヨリの先を口に近づけて、強く吹くと、ぽツと小さな焔が燃えあがつた。

     戦争の道義化について

 江都県城楊州の周囲は内城と外城とがあつて、外城の方は延長十支里に亙り、その昔倭寇に備へるために築かれたものだといふことである。
 中支の各地方を訪れると、きつとこの倭寇の遺跡がある。
 楊州の附近は名所が多いと聞いてゐたけれども、私はわざわざ行つてみる気がしなかつた。それよりも、ひとりで街をぶらぶら歩いてゐると、倦きるといふことがない。どこもかしこも曲りくねつた狭い道路で、人力車や手押車が通ると、通行人はいちいち道を除けなければならぬ。少し雑沓してゐるところでは、片手で車の梶棒を支え、片手でぼんやりしてゐる人間を押しのけながら、「ワイ、ワイ」といふ掛声をかけて歩いて行く車挽きの商売もよほど日本とは変つてゐる。もちろん歩いた方が速いにきまつてゐるが、それでも乗つてゐるものは降りやうとしない。車は文字どほり足代りなのである。ところが、これはほかの土地で聞いた話であるが、日本人がこの人力車に乗ると、覚えたばかりの「快々的《カイカイデー》」(はやく、はやく)をのべつにやるさうである。さもあらうと思ふ。
 裏通りの住宅街は例の高い塀で屋敷の一廓一廓を囲んでゐるから、まるで壁と壁との間を縫つて歩いてゐるやうなものだが、それでも、ふと、四ツ辻などに出ると、急に明るく陽が射したところへ、どつしりとした土塀の線が美しく交はつて、豊かな落ちついた一廓を形づくつてゐることがある。すると、閑寂な門の構へにもなんとなく心惹かれて、潜り戸の何時か開くのをそつと待つやうな心持ちにもなるのである。
 街のなかの要所々々には、巡警が立つてゐる。私は主にヘルメットをかぶつてゐたのだけれども、やはり服装で日本人だといふことがわかり、多少軍服まがひの服装をしてゐたためであらうか、それらの巡警はいちいち丁寧に挙手の礼をする。実に真面目な、俗に云ふ新兵さんのやうな礼で、私はその度毎に面喰ひ、恐縮した。
 楊州といふ町は、支那でも珍しく清潔法が行はれてゐたとかで、下水もでき、なるほどさう云へば、どこを歩いてもそんなに臭いといふやうな場所はない。路傍の汚物も目立つて少い。これもしかし比較的の話で、日本内地の標準では、さあ、どういふことになるか。
 さて、僅かの観察ではあるが、私にも、支那といふもの、支那人と云ふものがいくらか解りかけたやうである。
 改まつて、それではどんなものだといふことになるとなかなかむつかしい。それは恰もわれわれがわれわれ自身について語るのが困難なのとおなじである。強ひてそれを云はうとすると、どこかに隙間ができ、その隙間から真実が逃げて行くやうな危惧を感じる。
 さういふ点で、私は、これまで多くの支那研究家がどんな意見を公けにしてゐるか、それをぼつぼつ参考に読んでみたいと思つてゐる。私の浅い見聞はそれになにものをも附け加へないであらうことはほゞ想像はつくが、たゞ、さういふ支那及支那人なるものゝ享け容れかたについて、私には私の流儀があり、同時に、将来、われわれが支那及支那人に対する根本的態度がどうありたいかといふ希望が生れて来ないわけにいかないのである。
 日支親善といふことが云はれてゐる。これは決して外交辞令的な、政治臭を帯びたスローガンであつてはならぬと思ふ。単に両国の利害問題を基礎として、その関係を道徳的な名義に塗りかるだけのことなら、国民全体がそれほど一生懸命にならなくても、若干の基本的条件がそろへば結果は期せずしてそこに趨くのである。しかし、われわれが理解するところでは、今度の事変は日支両国民の真の提携、真の協力なくしては、その収拾の方法さへなく、平和建設の大事業を円滑に進めることが甚だ困難なのである。まして、今後永久に亙つて、再びかゝる災禍を繰り返さない為には、お互に余程の覚悟と反省が必要である。
 これを理論上から、日支、或は日満支の協同主義を唱へることは、一面に於てむろん必要でもあり、その効果は期待できないことはないけれども、それ以上に、国民と国民との感情的融和を計り、誤解から生ずる相互侮蔑の念を一掃することは、今日、両国の識者が何れも冀求するところである。
 しかしながら
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