員はどんな人物かと訊くと、教育局長自身が筆をとつてゐるらしいのである。一例として、国語教科書の草案に桂班長が眼を通した際、ひと処不穏な個所があつたので、局長を問責すると、彼は、自説を固持して譲らなかつたさうである。どういふところを不穏と認めたかといふと、なんでも「中国の現状について」といふやうな標題のもとに、支那の今日他国から侮りを受けるのは、国民のこれこれの欠点、従来の政治のこれこれの悪徳によるので、これを先づ矯正し改革しなければならぬが、そのためには、やはり、範を諸外国にとり、その長を学ぶ必要がある、と説きおこしたところまではいゝが、その次ぎに、文句は正確に覚えてゐないけれども、大体、欧米諸国はその文物制度、悉く完璧の域に達してゐるし、隣邦日本は、最近頓に長足の進歩を遂げ、云々、といふやうな言ひ方がしてある、そこが、桂班長に気に入らなかつたのである。
「どうしても変へないといふんですか?」
 と、私はこの純情な愛国者の顔をみた。
「変へないといふんです。その通りだから変へる必要はないといふんです」
「局長といふのは、あの頤髭を生やした老人でせう? 学者なんですか?」
「歴史家ださうです。以前から県の教育局長をしてゐた男です」
「それで、あなたはどうしました?」
「変へなければ辞めてもらうよりしやうがありません」
「辞めましたか?」
「いや、辞めるわけにもいかんと云ふんです」
「さうすると、どうなります?」
 桂班長は返辞に困ると文字通りそつぽを向く癖がある。私は、砲火のあとに、かゝる物騒な事件が数限りなく転がつてゐるのだと気がつくと、なにか心のせかれる思ひがした。

     情長髪短

 これは九江で聞いた話だが、戦死した支那兵のカクシに故郷の細君か恋人かから来た手紙がはひつてゐて、その手紙には、「情長髪短」といふ言葉で綿々の情を叙してあつたといふ。情《おもひ》は長く髪は短し、わが想ひに比ぶれば、この黒髪のなんぞ短き、である。
 ところが、この表現は、あまり現代の支那には通用しない、といふのは、地方の小都会楊州あたりでさへ、若い女は殆どすべて断髪である。この風俗だけが、どうして支那全土を席捲したか?
 私は、一日、憲兵隊の裏手に収容されてゐる俘虜を見に行つた。
 この間の戦闘で一人連れて帰つたあの男の正体はなんであつたか、それも知りたかつた。
 もうちやんと調べがついてゐた。
 最初どうしても兵隊ではないと云ひ張り、遂に何を訊いても口を噤んで語らなかつた、あの「怪しい人物」は、その後、憲兵の前で遂に立派な歩兵伍長であることを自白した。姓名、孫寿安、年齢二十七、所属、八九軍一〇四師四九七旅六九七団第二営第四連。聴取書によると、彼は一年前まで百姓をしてゐたのだが、強制徴集で兵籍に入れられたのである。最初は炊事当番であつたが、累進して伍長となり、今度の戦闘では分隊を指揮してゐた。給料は月十一円、そのうち食費六円を差引かれるから五円しか手にはひらない。一日二食の給養で、午前九時と午後四時、あとは空腹を忍ばねばならぬ。上等兵となると給料は八円、一等兵が七円八十銭、二等兵で七円三十銭、食費は同様である。
 兵隊は辛い。機会があつたら逃亡するつもりでゐた。捕虜になつた以上どうされても仕方がないが、万一赦されるならば、将来は日軍のために献身的に働くつもりである、云々。
 もう既に、この収容所でも、「日軍のために」働いてゐるものがゐる。李成林といふ大尉もその一人で、なかなか役に立つ。誠意を認められて家内を呼び寄せることを許された。早速やつて来た細君は、甲乙二人であつた。何れも断髪の美人である。
 歯医者さんに歯の治療をして貰ひに行く。独身のこの歯医者さんは、空家同然の住居に機械だけ据ゑて、書生、番人、下僕を兼ねた老支那人と二人で侘しく暮してゐる。
 日本を離れて数年、各処を転々として、最近この町に腰をおちつけたのださうである。
 治療がすむと、私に「これはどうだ」と云つて紙ぎれに書きつけた漢詩のやうなものをみせる。どうも恐縮だが、この自作の七言絶句はたゞ文字を並べただけのやうだ。「長江に船は浮べども帆の影が淋しい。楊州に美人多しと聞くけれども、果してさうだらうか。我は孤独の身を此処に運んだのだが、未だ妖艶わが魂を奪ふ姿を見ない。嗚呼、秋風なんぞ放浪の身に冷やかなる」といふ風なものであつた。
 市場のなかをぶらぶら歩いてゐると、名も知らず、味の想像もつかない食物が、ずらりと店先に並んでゐる広い間口の家がある。奥をのぞくと、いくつもの卓子を囲んで、人々が盛んに飲み食ひしてゐる。料理屋だなと思つてつかつかと中へはひつてみたが、空いてゐる席がひとつもなかつた。
 そこから少し先に、露天の茶店みたいなものがある。昼近くで腹が空いてゐたし、その茶店へ
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