数名を伴つて宴席に連つた。
琴に合せ、自ら胡弓を弾きながら、八十いくつとは思はれぬほど艶のある声で、しかも支那音曲にはまつたく素人の私にさへ、これこそ名人の喉と思はれるやうな、かれきつた、まことに味ひの深い歌ひぶりで、古典俚謡の数曲を聴かせてくれた。
先日のあの激しい掃蕩戦のあとで、このしめやかな音楽のなんと胸に浸み入ることぞ、である。
緑楊旅社の忘れ難い印象はこれだが、その老歌手の古木のやうな姿も、今なほ私の眼底を去らない。
青年二人
県長の×氏に頼んで楊州の代表的な青年二人を紹介してもらひ、通訳入りでもどかしい会話を交えた。
一人は楊州中学を出て杭州の浙江大学文科に学び、事変と同時に帰省して、現在この土地の長生小学校で教鞭をとつてゐるといふ二十四五の青年、一方は南京鐘南中学の高等科二年を修了して、今、自宅で「ぶらぶらしてゐる」廿そこそこの「学生」である。
代表的といふ意味はちよつと曖昧だが、県長の推薦だから、あらましの見当はつく。
二人とも先づなによりも、温良そのものゝやうな、危険思想などは向うから遠慮しさうな人物であつて、率直に云へば、その何れからも私は中国青年の新しいタイプを感じとることはできなかつた。
通訳も例の神戸仕込の床屋さんであつたといふことはなによりも失敗だが、かういふところに、既にわれわれの観察と判断の限界があることを痛感した。
試みに私は、彼等の日本に関する知識を質してみた。具体的なことは殆ど頭にはひつてゐないやうである。云ひにくいことはもちろん控へたに違ひない。例へば日本の大学の名前などひとつも挙げられないといふあんばいである。
浙江大学の文科では、なにを専攻したのかと訊くと、これは通訳の方が怪しいが、「詩文」だといふ返事である。「詩文」といふ科があるのかと重ねて問ふと、「古典文学」だと云ひ直す。
そこで、筆談で補ひながら、「そんなら、現代文学とか、外国文学とかいふ科もあるのか」と訊いてみた。すると、そんなものはないといふ。このへんから、いよいよ通訳にも筆談にも信用がおけないと気がつき、話題を転じて、
「事変前と今日と君たちは日本に対する考へ方が多少は変つたゞらうと思ふが、どういふ風に変つたか、正直に云つてみてくれたまへ」と、私は切り込んだ。若い方が先づ答へた。
「事変前は、日本についてあまり知らなかつた。それでいゝと思つてゐた。今は、もつといろんなことが知りたい。知るべきことがたくさんあるやうに思ふ。両親が許せば日本に行つてみたい」
年長の方は、
「事変前から自分は日本に興味をもつてゐたけれども、十分に調べる機会がなかつた。日本の文学についても、たまに雑誌などで翻訳を読むぐらゐで、日本人の生活といふものが、さつぱりわからなかつた。自分は政治は好まない。だから、抗日的な思想には無関心であつた。今は、中国の危機であるから、これを救ふのは日本と手をつなぐ以外に方法はない。小学校へ勤めてゐるのは生活のためである。しかし、これから児童の教育といふ問題は、中国の新しい更生のために重要である。さういふ点でも、日本の指導を受けなければならぬと思ふ」
通訳のあやふやな言葉を、私の推測でやつとこの程度に整理したのだから、間違ひがないとは保証できぬ。
私更に、日支の協力といふことを二三の点で述べた後、
「将来若しこの楊州に日本文化研究の機関ができたとしたら、君たちはそれを利用する意志があるか?」と訊ねた。
二人は同時に、「大いにある」と答へ、若い方は、そのあとで、膝を乗り出して、「それは何時頃できるのか」と気の早い質問をした。
「そいつはまだわからない。しかし君たちのやうな青年がこの土地に沢山ゐるかどうか、それによつて早くもなり遅くもなるだらう。楊州の青年で抗日軍に参加してゐるものがまだ随分ありはせぬか?」
「多少はあると思ふが、現在楊州にゐないものでも、たゞ両親と一緒に避難してゐるものがたくさんある。何れは還つて来ると思ふ」
「避難してゐるところは何処が多いか?」
「上海、香港だ」
「小学校は現在どの程度に開いてゐるか?」
「まだごく少い。こゝでは私塾が大部分である。日本軍の許可を得なければ開校できないことになつてゐるから、今、その手続をしてゐる向きが多い。なかなかむつかしいらしい」
「新しい教科書はもう出来てゐるのか?」
「県教育局で目下編纂中だとのことで、自分のところでは臨時に刷物をこしらへてゐる」
「維新政府編纂のものがもう出版されてゐやしないか?」
「それは知らない」
私は二人の来訪を謝し、再会を約して別れた。
その後、桂班長に会つた時、県当局によつて編纂されてゐる新教科書がどんなものか見せてくれと話したところ、今まだ教育局長の手許で立案中だとのことであつた。編纂委
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