る。右側の帳場は西洋のホテルとおなじになつてゐて、支配人がボーイに部屋の番号を云ふ。
 ホールの天井は三階まで筒抜けで、各階の廊下が四方を取囲んでゐる形である。部屋から廊下へ出ると下のホールがまる見えだから出入りする人物がいちいちわかる。
 ところで、このホールは、まつたく街頭の延長のやうなものだといふことは、そこへなら物売りでも乞食でも勝手次第にはひつて来られるらしい。小娘を連れた流しの唄うたひも、そこで一曲演じてみせる。この旅客相手の門づけは絶えず上眼をつかつてゐる。天井から落ちて来るものを見逃さないためである。
 若い男女の一組が、二階の手摺に臂をついて楊州小唄の哀調に聴き入つてゐる風景は、いかにもわれわれの想像の一隅に生きてゐる支那気分で、無作法なボーイのサーヴィスも全体の雰囲気からみれば一向苦にならぬ。それどころか、慣れるにつれて、簡便で、暢気でざつくばらんで、こんな居心地のいゝホテルは世界中にないと思ひだした。が、この感じは結局人さまざまで、ある人から見れば、不便で、横着で、だらしがないと云ふことになるのであらう。
 私は、そこを根城に、市中を歩き廻り、時々本部に顔を出し、占領後十ヶ月のこの楊州に、何が新しく生れつゝあるかをできるだけ見ておかうと心掛けた。
 事変前には、日本人がたつた二人、一人は塩務官といふ役人、一人は支那人の細君になつてゐる女、それきりであつたらしい。その塩務官のことはよくわからないけれども、西野某といふ女性は大民会発会式の式場でちらりと姿をみかけた。
 現在では、そのほかに、歯医者さんが一人、雑貨商をやつてゐる人が一人、はひつて来てゐる。
 料理屋風のものも一軒早くから店を開いたさうであるが、営業不振で何処かへ引上げて行つたとのこと、これはつまり、当地区の警備隊では兵士の外出を制限してゐるためだとわかつた。
 こゝでひとつ肝腎なことがある。
 小川部隊長の意見によると、警備部隊の信条ともいふべきものは、第一に軍紀厳正といふことであつて、その点少しでも緩やかなところがあれば、如何に士気が旺盛でも、戦闘力に欠けるところがなくても、最大の任務たる治安の確保は困難だといふのである。それはつまり、治安の要諦は、日本軍に対する住民の信頼と尊敬を得るに在り、単に武力による圧迫は、表面、彼等の服従を強制し得ても、住民の自発的な協力を得ることは不可能で、それなしには、治安の真の意味に於ける確保、即ち、残敵の蠢動を封じて占領地域を拡大するといふ軍事行動は勿論、治安と並行して発展すべき一般平和建設工作の基礎条件が備はらないことになるわけである。
 当地区では、部隊長のこの着眼によつて、平素の訓練が行はれてゐるばかりでなく、例へば外出の如きも、内地の勤務同様一週一度と定め、しかも散歩区域を限つて住民との不用意な接触を避け、日本軍の如何なる面も彼等の生活を脅かさないといふ事実を明かに示すやうにしてゐるのである。
 城門に配置された衛兵の態度をみても、場所柄、いくぶんは実戦本位になりがちであるところを、こゝでは厳に平時の姿勢を崩さず、最も整然たる規律的動作によつて、戈を収めた「日軍」の頼もしさを住民の頭に刻みこませてゐる様子であつた。
 部隊長は更に云ふ――
「兵隊には、少し窮屈でせうが、これも結局は兵隊の為になるんです。第一に事故をおこしません。住民は益々兵隊に好意をもつて、必要な物資をどんどん供給してよこします。敵の密偵などがはひり込むと、すぐに知らせて来ます。それから、たゞ怖いものと思つてゐた日本軍が、かういふ風に滅多に街へも出ないとわかると、逃げてゐた連中、殊に、大きな商人や、若い娘や、腕に職のあるものが続々帰つて来ます。街が街らしくなります。ほんとの復興がそこから始まるのです」
 私は問うた。
「上海の外国租界以外では絶対に見かけない中流以上と想はれる女が、平気で門口に出たり、街をぶらついたりしてゐるやうですが、あゝいふのは、もう安全だといふ見当がついたからでせうね」
「はゝあ、さういふのがお目にとまりましたか。私も実は、めつたに街などは歩かないもんだから……」
 そこで、私は、楊州美人なる定評に値する女が、もはや此処にはゐないといふ若干の人々の意見に反して、私の眼は、たしかに、この土地の女性に共通なある豊かな輪廓を見逃せなかつた旨を報告した。小川部隊長がそれを「わがことのやうに」悦んだかどうかはうけあへない。
 やはりこの緑楊旅社の食堂で、○○から巡視に来たある武官の一行を綏靖隊長の×氏が招待して、一夕、慰労の宴を張つた。
 私もその席に列つたのであるが、支那側自慢の楊州料理は評判に違はず甚だ滋味に富んだものであつたうへに、その夜は、この土地の名のある老歌手が、その家柄の要求する招待客の一人といふ資格で、楽師
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