いろな経験者の支那人観なるものを読んでゐるうちに、私は、一つの大きな疑ひにぶつかつた。
 それは外でもない。われわれ日本人はいつたい対手たる支那人を識る以前に、自分自身をもつとよく識つておく必要があるのではないかといふことである。
 日本人は支那人のかういふところを知らぬから、かういふ不都合な結果が生じたといふ風に教へられる。なるほど一応は尤もだと思ふ。ところが、さういふ不都合な結果が生じたのは、実際は、支那人のある特別な流儀を知らぬからといふよりも、寧ろ、日本人がなんでも自分本位に物を考へ、一事を以て全般を律する癖があるところから来てゐるのではないかといふ気が私はするのである。
 その証拠に、支那人は概してかういふ風だと云はれてみても、さういふことを単に知らないために大きな間違ひが起りさうなことはひとつもないのである。
 もちろん、すべての対人関係に於て、双方が相手の特徴を呑み込み合ふといふことは必要に違ひないけれども、それを呑み込んでゐるだけで万事うまく行くといふ訳合のものではない。識つてゐるにも拘はらず、どんな悶着でも起し得るのが人間同志の浅間しい一面である。日支両国民の感情に若
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