である。
 私はじめ、演劇を愛し、現代に興味を寄せる一観客層は、不幸にして、今日の劇場に足を向ける勇気がなく、その鬱憤を、辛ふじて映画――殊に外国トオキイによつて晴らしてゐるのである。
 映画を映画として観る以外に映画を演劇としてみる習慣がいつの間にか、われわれの間に植ゑつけられてゐる。
 最近の外国トオキイは、この意味で、わが国の演劇的饑饉を救つてくれたといつてよく、ここに至つて、「映画は演劇よりも演劇的なり」といふ逆説が生れて来さうだ。
 私はまだ、トオキイになつてからでも、これに出演する外国の舞台俳優を通じてまだ名優らしい名優の演技に接したわけではないが、少くとも俳優らしい俳優の、決して映画的とばかりは云へぬ、寧ろ、舞台的魅力の数々を「眼と耳」によつて感じ、現在日本の芝居に、そのうちの一人にでも匹敵する現代劇俳優を求め得られない事実を、誰が否定し得るかと云ふのである。
 ある者は云ふかもしれぬ。――それは西洋人が俳優的素質に恵まれてゐるのであると。またある者はかうも云ふであらう。――君は、西洋人の肉体的魅力を舞台的魅力と混同してゐはしないか?
 私はそれに応へよう。
 ――日本に
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