である。
私はじめ、演劇を愛し、現代に興味を寄せる一観客層は、不幸にして、今日の劇場に足を向ける勇気がなく、その鬱憤を、辛ふじて映画――殊に外国トオキイによつて晴らしてゐるのである。
映画を映画として観る以外に映画を演劇としてみる習慣がいつの間にか、われわれの間に植ゑつけられてゐる。
最近の外国トオキイは、この意味で、わが国の演劇的饑饉を救つてくれたといつてよく、ここに至つて、「映画は演劇よりも演劇的なり」といふ逆説が生れて来さうだ。
私はまだ、トオキイになつてからでも、これに出演する外国の舞台俳優を通じてまだ名優らしい名優の演技に接したわけではないが、少くとも俳優らしい俳優の、決して映画的とばかりは云へぬ、寧ろ、舞台的魅力の数々を「眼と耳」によつて感じ、現在日本の芝居に、そのうちの一人にでも匹敵する現代劇俳優を求め得られない事実を、誰が否定し得るかと云ふのである。
ある者は云ふかもしれぬ。――それは西洋人が俳優的素質に恵まれてゐるのであると。またある者はかうも云ふであらう。――君は、西洋人の肉体的魅力を舞台的魅力と混同してゐはしないか?
私はそれに応へよう。
――日本に於ても、ハアバアト・マアシャルやクロオデット・コルベエルぐらゐの男女は、ざらにゐると思ふ。ただ、彼等及び彼女等は、舞台に立つことを思ひ立たないだけである。いや、既に、あの程度の「素質」をもつた役者が二三人はゐると思ふ。が、彼等は、ああいふ種類の演技を教へられなかつたまでである。
この議論を押し進めて行くと、結局、
一、これから如何なる男女をして俳優を志望させねばならぬか?
二、如何なる素質を標準に俳優志願者を採用すべきか?
三、如何なる舞台に適する俳優を養成し、これを如何に使用すべきか?
といふ問題を解決しなければならぬ。
さうなると、劇団統率者の頭脳並びに趣味を一応吟味してかからねばならぬ。さういふ標準なら御免蒙るといふ志望者の中に、仮にわれわれの期待する俳優の悉くがゐるとすれば、日本の演劇も、未来は暗澹たるものである。
従来俳優を志す青年男女で、自信ありげな連中をざつと点検すると、男ならば、列車のボオイ型、医者の代診型、呉服屋の番頭型、角帽被りたさの大学生型等々に限られ、女ならば、芸者、女給、ダンサア型、が主で、偶々変つてゐれば、味もそつけもない娘型と相場がきまつてゐる
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