つた最大の原因なのだ。
 この間の消息を最も痛切に感じてゐるものは、直接、それらの戯曲を演ずる俳優のうち、相当現代の俳優としての素質を恵まれてゐる人々であらうと思ふ。
 ところが、俳優といふものは、所謂「人気商売」であるところから、思つてゐることを正直に云へないものとされてゐる。
 だから私が代つて云はう。ある新劇の最も才能ある女優の一人は、嘗てこんな意味の告白をした。
「台詞を正確に云ふ工夫を演技の第一目標とし出してから、舞台が今までになく楽しく、俳優としての生き甲斐を感じ出しました。」
 かういふ女優によつて自作を演ぜられる作者こそ、脚本の書き甲斐があり、かういふ役者の才能を伸ばし得るやうな作品にして、はじめて、戯曲らしい戯曲といへるのである。
 戯曲評価の第一歩をここに置くことを忘れた従来の「新劇運動」は、今日四苦八苦の体である。自業自得といへばそれまでであるが、眼覚むることのなんぞ遅きやと嘆ぜざるを得ぬ。
 序だから、簡単に、新劇を面白くする方法を述べれば、
 第一に、新劇俳優のうち素質のないものはみんな止めてもらふこと。
 第二に、素質のあるものは、演技の第一歩から修業をしなほすこと。お手本は……已むを得ぬから、外国トオキイに出る舞台俳優のうちから好きなのを選ぶこと。
 第三に、練習用脚本は、日本現代作家のものなら誰のものでもよろしい。但し、自分が面白いと思ふものを選ぶ。それも、工夫する毎に面白さの増すやうなものでなければ永く続けないこと。
 第四、上演目録は、新進作家のものか、或は西洋劇の巧な翻案を選ぶ。但し、これは責任上私に推薦させて欲しい。
 第五、稽古は、少くとも二ヶ月間、ぶつ通しでやること。勿論、稽古の方法は、演出者と相談して、無駄を省くこと。
 これだけを守つて、新劇が「面白く」ならなかつたら、私はエチオピヤへ行つて獅子に食はれてもいい。
 松竹が如何に「演劇の大学」なりと自称し、東宝が如何に「大衆芸術の殿堂」を標榜しても、松竹は「現代的」でなく、東宝は「演劇的」でないこと明かで、将来若し、第三者が、「現代的」なること東宝の上に出で、「演劇的」なること松竹より純乎たる一分野を開き得たら、「現代演劇」の主権は、疑ひもなくその掌中に握られるわけである。

     映画は演劇よりも演劇的なり

 ところが、かくの如き分野は、皮肉にも、既に存在するの
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