は、そんなことゝは知らなかつたから、なるべく一枚に沢山はいるやうに二十五字詰を使つてゐた。
 同君は更にかう云つた。
「僕は戯曲つてやつはよくわからないから、こいつはひとつ山本有三君に読んで貰はうぢやないか。僕の方から廻しておかう。紹介するから一度訪ねて行つてみたまへ」

       四

 山本有三といふ名前を僕はその頃知つてゐるにはゐたが、作品は一つも読んでゐなかつた。外国へ行く前、赤坂のローヤル館で武者小路氏の「その妹」を観た、その時の舞台監督として知つてゐたのである。勿論、新聞か雑誌でその後名前を見たやうな気もするが、文壇劇壇に於ける同氏の地位といふやうなものはどうも見当がつかない。たゞ豊島君が信用してゐる劇作家なんだから、さういふ専門家に僕の書いたものを見てもらへれば有りがたいと思つた。しかし、念のために、といふよりも寧ろ、礼として、同氏の作品を少しは読んでをかねばならぬ。その時何を読んだかはつきり覚えてゐないが、たしか「津村教授」ではなかつたかと思ふ。
 それに豊島君の話では山本氏が独文科の出身だといふことだから、僕のどつちかと云へば「フランス臭い」ものを頭から軽蔑しはせぬかといふ懸念もあつた。つまらんことを考へたものだが、当時の僕は、日本に於ける「新劇」の独逸的色彩など念頭になく、たゞ、寧ろ、自分の好みがあまりに「フランス張り」であることを意識してゐたからであらう。
 ところが、山本氏の家の二階で、生れてはじめて僕は「新進作家」としての待遇を受けたのである。
 夕刻であつた。フランスの芝居の話などしてゐるうちに、食事の時間になつた。僕の原稿は、天ぷらと一緒に運ばれて来た。山本氏は、暇がなくてまだ眼を通してゐないから、これから飯を食ひながら読まうと云ふのである。それでも結構である。が、今の僕なら、百枚にあまる駈け出しの原稿を読まされることは如何に苦痛を覚悟してかゝる必要があるかを知つてゐるけれども、自分がその駈け出しである場合は、「飯を食ひながらとは少々一挙両得すぎるぞ」と、秘かに先輩といふものゝガツチリさに驚嘆するのである。
 しかし、いざ、僕は箸を取りあげ、山本氏は箸と原稿を取りあげ、僕が口だけを、山本氏が口と眼を働かしてゐるのをみると、内心感謝の念がしみじみとわいて来た。第一に、そんなにまでして読むべき値打のある、代物かどうか、それより天ぷらが冷めてはまづいであらうにと思ひ、次に、これでもし、僕がせめて口でも動かしてゐなかつたとしたら、自分の書いた文章をかうして読まれてゐるそばで、ぢつと待つてゐるのはさぞ照れ臭いことであらうと思ひ、二重の意味で、山本氏の配慮の周到なことに気がついたのである。
 第一場、第二場と進んだころ、
「うむ……」
と、山本氏の唸る声がした。退屈したとも取れ、感心したとも取れる、甚だ微妙な唸り声である。
 第三場が終つた時、ちよつと休憩である。思ひ出してもぞつとする瞬間だ。山本氏の箸は、急に活気を呈し、眼鏡の奥で、眼が言葉を探してゐる。そして、僕の耳に、やがてこんな意味の言葉が、夢のやうに伝はつて来た。
「近頃読んだ脚本のなかで、これくらゐ面白いものはない」
 僕は率直に、この甘い批評をこゝに書きつける。公けにすべき性質のものでないことは知つてゐるが、僕の作家生活の希望あるスタートは、この激励に負うてゐるからである。
 帰りの夜道は、心の明るい灯によつて照らされてゐるやうであつた。
 とは云へ、その興奮がさめた後の、あの名状しがたい不安をこゝで書き漏してはならぬ。それはなにか? 果して第二作が書けるかといふことである。あとにもだ、なにかが残つてゐるかどうかといふことである。
 この不安は、恐らく、僕のやうに、「偶然になつた作家」の場合に限られるものではないかと思ふ。最初の作品が生れたものでなく、作りだしたものである、といふ弱味から来るのであるかも知れない。或は、単に、褒められすぎた駈けだしの不心得な自尊心か。
 改造へでも推薦しようといふ山本氏の好意に、なほすがる外はなかつた。
 期待のうちに日が過ぎた。
 しかも、それから十日もたゝぬうちに、あの大震災である。

       五

 日本の演劇界がこの大震災を境界としてどういふ風に変つたか? 少くともこの種の歴史的事件によつて、物質的、精神的に、あらゆるものが相当大きな影響を受けたであらうが、芝居の方面はどうであるか? 今になつてそれは調べればわからないことはないが、当時の僕には、それほどはつきりした姿で映つては来なかつた。
 例へば東京のあらゆる劇場が灰燼に帰したといふ新聞の報道も、あゝ劇場もかと思ふだけで、それが自分の仕事、生活の領域で、直接なんとかせねばならぬ問題として響いては来ない。これが若し、震災前に何等かの形でその道に足を踏み込んでゐたら、もつと激しいシヨツクを受けてゐるであらうことは勿論、やがて起つた所謂「演劇復興」の掛声に対しても、また別な感慨をもつてこれを迎へたであらうと想像されるのである。
 早く云へば、劇場の封鎖も雑誌の休刊も、当時の僕には、それほど痛痒を感じさせなかつたと云へるかも知れない。あの混沌たる情勢のなかで、僕は早くも自分の原稿のことなど忘れてしまひ、明日から親同胞を養つて行く職業のことを想ひめぐらした。そして、古本屋をやらうと決心するに至つたこと、それがおいそれとは出来なかつたこと、そこへもつて来て旧友鈴木信太郎君から耳よりな仕事の話を持ち込まれたこと、など、詳しく語つてゐる暇はない。
 たゞ、この仕事の話といふのは、前にも云つた「フランス文学の叢書」といふ厖大な翻訳事業のことで、例の辰野氏、豊島君などもこの計画に加はつてゐる関係から、僕は自分の好きなものを勝手に引受けるといふ特権(?)を与へてもらふ形になつた。で、僕は先づそのなかゝら二つを撰んだ。例のルナアルの「葡萄畑の葡萄作り」と、アナトオル・フランスの「鳥料理レエヌ・ペドオク」である。このことを特にこゝで記しておくのは、僕のその頃傾倒してゐた二人の作家の名を計らずも掲げ得る機会を得たからである。「鳥料理」は、つひに手をつけずにしまつたが、その叢書の刊行も書肆側の都合で完成をみなかつたと記憶してゐる。
 さて、さういふ先の長い仕事がみつかつた以上、慌てることはないのである。そこへもつて来て、棚から牡丹餅式に、豊島君からと鈴木君からと、語学教師の口がかゝつて来た。一方は法政大学、一方は中央大学で、それぞれフランス語を教へてみろといふのである。時勢の移り変りは恐ろしいものだと思ふ。当時は、まだ文学士の数は足りなかつたのである。
 戯談は別として、僕もいよいよ先生になる覚悟をきめ、収入の足らないところは翻訳と個人教授で埋める方針をたてた。そこで、住居も便利なところをと思ひ、牛込若松町の坂下に一戸を借りうけ、専門の芝居にはしばらく別れを告げる意味で、門口に「仏蘭西語教授・モリエール学会」といふ看板を掲げた。仏英和女学校の附属小学校のオカツパの生徒が一人、女中に連れられて習ひに来てくれたことはせめてもの慰めであつた。
 いや、慰めと云へば、もつと大きな慰めがあつた。時々、山本有三氏宅で、文学や芝居の話をするグループに会ふことであつた。
 ある日のこと、その席上で、新しい演劇雑誌が創刊されること、それにはわが劇壇の錚々たる名士が挙つて同人となり、演劇復興を目指して大いに新風を鼓吹する方針で、その編輯責任に山本氏自身が擬せられてゐるといふ景気のいゝ話が持ち出された。
 なるほど、みんなの顔色でもそれがどんなにセンセイシヨナルなニユースであるかは察しられたが、実は、かういふところが、当時の僕にはぴんと来ないらしく、新しい雑誌といふ意味が、新しい演劇運動といふものにそれほど結びつかない。が、こいつは不思議でもなんでもない。僕は、日本の劇作家が雑誌のなかから生れるといふ重大な事実を知らなかつたのである。

       六

「演劇新潮」はその年の暮に、創刊大正十三年正月号を出した。
 同人として左の人々が名前を連ねてゐる。
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伊原青々園
池田大伍
小山内薫
岡本綺堂
吉井勇
谷崎潤一郎
中村吉蔵
長与善郎
長田秀雄
久保田万太郎
久米正雄
山崎紫紅
山本有三
里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
菊池寛
[#ここで字下げ終わり]

 編輯は山本有三氏これに当り、その下に、能島武文、北尾亀男の両氏が働いてゐた。
 今、その創刊号といふのを開いてみると、当時僕の気のつかなかつた劇壇の情勢が、手にとるやうにはつきり眼に浮ぶ。「復興後最初に見たい、演じたい、監督したい、装置したい脚本」といふ諸家のハガキ回答も、この雑誌の誕生を意味づけるものである。
 僕の処女作「古い玩具」は、さういふ関係で、この雑誌の第三号に載せてもらふことになつた。
 無名作家の、なにしろ百枚以上のものを一度にのせるといふのは、編輯者としては冒険であつたに違ひない。現にその月は二つしか戯曲がのらないので、後記はその断りを陳べてゐる。
 さて、雑誌が店頭に出ると、僕はさすがに落ちついてゐられなかつた。誰がどこで読んでゐるかわからないと思ふと、外へ出るのも面映ゆいと云つたあんばいで、甚だ滑稽であつたが、果して、未知の読者から若干の手紙を貰つた。なかに、シユニツツレルを想はせるなどゝいふ有りがたい批評もあつて、僕はぼつとした。ところが、二三日して、読売新聞文芸部記者の訪問を受けた。これは大事件だ。僕の経歴を話せといふのである。写真を撮らせろといふのである。僕は神妙に問ひに答へ、レンズの前に坐つた。妹と二人暮しであつたから、その妹も序に坐らせた。あゝ、日本といふ国はなんといふ有難い国であらう。あれくらゐのものを書いて、遂に、僕は「知られ」ることになつた。
 それまでは、さほど気にとめるつもりもなかつた世評に対して、僕は、やはり好奇心を動かした。しかし、月評を漁つて読むといふ手は知らなかつた。で、自分のとつてゐる新聞で、人が何と云つてゐるかを注意した。時事新報で、金子洋文君が好意に満ちた批評をしてくれたのが最初である。翌月の演劇新潮で、柴田勝衛氏が毛色の変つたものとして「古い玩具」をあげてゐた。柴田氏は当時読売の文芸部長、僕のところへ訪問記事を取りに来た青年記者は、現在同紙の文芸部長清水源太郎氏であつたことを思ひあはせると、誠に今昔の感に堪へない。
 その外の批評は、出たかも知れぬが僕の眼にはまつたく触れずにしまつた。たゞ、「新演劇」といふ雑誌で、小寺融吉氏が、「新人の名に値しない作品」だとこきおろしてゐるのを後に読んだ。読んだ時は「何を」と思つたが、さういふ人もあつてくれてよかつたといふ気が今はするのである。誰がかう云つて褒めてゐたとか、貶してゐたとかいふ間接の話が随分聞かされたが、みんなあらかた忘れてしまつた。
 四月号から、僕は、山口才十といふ匿名で雑文記事を書きだした。「仏国劇作家の利権擁護運動」といつた類のものである、五月号では、水谷八重子の芸術座公演を批評した。
 この批評文は、僕の最初の「新劇印象記」であるからこゝにちよつと抜萃する。

 演技について。(シヨオの「軍人礼讃」)
 私はまづニコラに扮した東屋三郎氏に満腔の讃辞を呈する、どこがいゝのか未だよくわからない。何しろ日本にもかういふ役者が出て来たかと思はれるやうな一種のエスプリイを持つた人のやうに思はれた。口だけでものを言つてゐない。すばらしい瞼の働きをもつてゐる。……
 ライナに扮する水谷八重子嬢は悲劇の主人公にもしまほしき美しさだ。彼女の持味は古典喜劇の「|オボコ娘《アンジエニユウ》」だ、コケツトを演ずるためには何か知ら欠けたものがある。
 田村秋子嬢のルーカはあゝ何時もすね[#「すね」に傍点]てばかりゐなければならないであらうか。だから、ほんとにすね[#「すね」に傍点]る時に、そのすね[#「すね」に傍点]が利かなくなる。よくあることだ。
 要するに翻訳劇を日本でやるとすれば、先づ第一
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