に脚本の詮衡、原作者の名前に囚はれないで、上演に適した翻訳であるかどうかを吟味することが必要である。こんなことは云ふまでもないことであるが、この誤りは逆に俳優を窮地に陥れるものである。あの間《ま》のびのした台詞廻し、朗読の範囲を一歩も出ない抑揚緩急、科と白との間に出来るどうすることもできない空虚、これらは前に述べた戯曲の文体から生ずる舞台的欠陥である。
 私は日本の近代劇が先づこの点で大きな障碍とぶつかつてゐることを痛切に感ずる。

 六月号に、ルナアルの戯曲「日々の麺麭」の翻訳をのせた。

       七

 そして、この年の六月には、日本新劇史上、劃期的の事業とされてゐる築地小劇場が創立せられ、その旗挙公演が華々しく行はれた。
 私は勿論、大なる感激と期待をもつてこれを迎へた。かねがね、いろいろな機会に、この運動の具体化されつゝある情報を耳にしてゐたことはゐたし、ほゞ、その輪廓は推測し得るものであつたが、要するに、独逸帰りの土方与志氏が巨万の私財を投じ、嘗ての「自由劇場」の創立者小山内薫氏が采配をふるふといふことだけで、十分、合理的なプランと良心的な目標とが掲げられるものとわれわれは信じてゐた。
 さて、第一回公演に先だつて、「築地小劇場建設まで」といふ小山内氏の文章が発表された。
 この文章は、永遠の青年小山内氏の面目を伝へるばかりでなく、当時の若い世代が新演劇に対して抱いてゐた熱情の一つの型を代表するものだと思ふ。参考のためにその全文を引用する。

「私が去年の三月、松竹と手を切つた時――それは私が日本の営利的劇場のすべてに対して、望みを絶つた時でした。
 私は再び日本に於ける営利的の劇場には如何なる関係に於いてもはひつて行くまいと決心しました。私は唯書いて、僅に生活し、僅に自分を慰めました。
 その内に私の思想の上にある黎明が来ました。それは独逸に行つてゐる土方が帰つて来たら二人で演劇学校を興す事でした。
 大地震が来ました――その時私は家族を挙げて地方にゐました――東京の殆ど総ての劇場は焼け亡びてしまひました。私の心の中で半年前に亡びてしまつてゐた総ての劇場は目に見える形の上でも亡びてしまつたのです。……
 併し、総ての劇場が亡びると共に私自身の希望も亡びてしまひました。少くとも十年のギヤツプが私の目前に口を開いたのです。
 震災後の東京の劇壇――すべてが亡びて、すべてが新らしく生れて来なければならない劇壇――そこから生れて来たものは果して何でしたらう。営利劇場の基礎もない競走的宣伝、劇場の全滅をいゝ事にして、そこここに首をもたげた怪しげな新劇団、バラツク俳優、バラツク演技、バラツク興行師……。
 私はいよいよ絶望しました。私は唯読んで書かうと思ひました。書いて読まうと思ひました。如何に叛かれても憎む事の出来ない演劇を狭い書斎の内に、それよりも狭い自分自身の頭脳の内に作り上げようとしました。そこへ欧羅巴から土方が帰つて来ました。
 そして吾々の劇場を建てようと思ふがどうだと言ふのです。今ならバラツク劇場の建設が許される。そして、こゝ五年間はそれを吾々の舞台とする事が出来る。本建築で吾々が劇場を持つと云ふ事はいつ出来るか解らない。バラツクなら吾々の劇場が持てるのだ……。
 吾々の劇場――自分達の研究劇場――それが持てるといふ事は、私にとつて可成り強い誘惑でした。私は何も考へず唯それだけの誘惑に引つぱられて行きました。「よし、やらう」私は直ぐに賛成しました。それがこの二月三日でした。
 それから、この四ヶ月――それは総ての為の準備に費されました。
 準備とは何ですか。先づ同志を糾合する事でした。若い同志が集つて来ました。毎日のやうに議論がありました。人々は附いたり離れたりしました。そして最後に組織せられた同人が演出家として土方と和田精と私と、俳優としての汐見と友田と、経営者としての浅利鶴雄とでした。この同人六人はこの劇場経営維持に同じ程度の責任と義務とを持つものでした。
 敷地の選定、警視庁の許可、それにも二ヶ月以上の考慮と奔走とが費されました。建築のプラン、舞台設備の設計、観覧席の研究――それにも一ヶ月以上が費されました。今年一杯の演出目録の予定、同人以外の同志――その内には俳優もあり、照明家もあり、舞台装置家もあり、舞踊家もあります、――が集められました。

 議論又議論、熟議又熟議、一つのアンサンブルとしての基礎は固くなつて来ました。最初に俳優の基礎教育が始まりました。発声、律動、発語の訓練が始まりました。建築についての当局との交渉も円滑に進みました。四月廿六日の朝、築地二丁目の小さな敷地に縄張りが施されました。そこの後には武藤山治氏の二千人はいるといふ演説場が既に天を突いてゐます。そこの隣りには団十郎座の建設が既に計画されてゐます。政界革新の機関に利用されようとする舞台と、瀕死の吐息をつきつゝある、古典的歌舞伎の保存に供せられようとする劇場との間に介在して、吾々の劇場は抑も何をするのでせう。それはこゝには申しません。唯見てゐて下さい。見てゐて下さい。

 築地小劇場に於ける私は今までの私とは全く別なものでなければなりません。
 私はもう単なる舞台の芸術家ではありません。私は一つの全人格としてこの劇場の中で働きたいと思つてゐます。私は生れて初めて何者にも拘束されない自由な国を此の小劇場の舞台の上に見出ださうとしてゐるのです。

 今この部屋の上でゲエリングの「海戦」の稽古が始まつてゐます。恐ろしい速度で弾丸のやうに詞が飛んでゐます。大砲の響が時々家を動かします。神を祈る者があります。服従を否定する者があります。異常な情慾に燃える者があります。気狂ひにならうとしてゐる者があります。それは戦争です。しかもその戦争の行きつく処は何でせう……吾々は今戦争に直面してゐます。そして吾々の目的は何でせう。弾丸が飛んでゐます。火焔が上がります。砲弾は吾々を震撼してゐます。吾々は何処へ行くのでせう。誰れも知りません。未だ誰れも知りません。併し知つてゐるものがあります。少くとも知つてゐるものが一人はあります。……」

 ところで、それと前後して、小山内氏は、たしか慶応の講堂で行はれた講演会に於て、一つの重要な宣言を発表した。
 今、その正確な記録がないので、言葉どほりを伝へることはできぬが、当時の文献によると、氏は、築地小劇場の抱負を語るに当つて、現代日本の創作劇中には自分らの演出慾を唆るものがないから、向ふ二年間は外国劇の翻訳のみを上演すると「豪語した」さうである。
 実のところ、僕などはその噂を伝へ聞いて、別に「豪語」といふやうな印象はうけなかつたが、一般戯曲創作界はたしかにある種のシヨツクを受けたに違ひない。演劇新潮同人の間に喧々囂々の論議が持ちあがつた。
 しかし、これだけの問題だとすると、小山内氏や土方氏の意図を善意に汲むこともできるのである。現に、僕などは、帰朝早々、西洋劇の本質的な研究によつて日本の新劇界は地ならしをしなほすべきであるといふ主張をもつてゐたから、なまじつかな創作劇をやられるよりも、西洋劇の優れた上演を見せてもらひたく、また、自分自身もその方面で若干の野心を抱いてゐたし、機到れば、築地小劇場の舞台でフランス劇の演出でもやれたらと、ひそかに考へてゐたくらゐである。
 さういふ関係で、いよいよ、旗挙公演の出し物が、チエーホフの「白鳥の歌」、マゾオの「休みの日」、ゲーリングの「海戦」ときまり、初日招待の切符を受けとると、僕は、心の中で呟いた。
 ――出し物は、別に文句はない。今日の日本の俳優が西洋劇をどの程度までやりこなせるか、
 そのための訓練と指導が、どの程度まで行はれてゐるか、まづ、これが目のつけどころだ。
 丁度、その頃、巴里で識り合ひになつたHといふフランスの青年がはるばる日本にやつて来てゐた。宿をきめるまでといふので僕の家に寝泊りをしてゐた関係から、たまたま、マゾオの「休みの日」を観せてやらうといふことになつた。彼は前もつて原文のテキストを読んでおきたいといふのだが、僕は生憎、そのテキストをもつてゐない。ヴイユウ・コロンビエ一座の上演目録中にはひつてゐたことだけ知つてゐたが、かけちがつてその上演も見そこなつてゐるし、こつちも読んでおく方がいゝから、やつと人から借りて、そいつを彼に朗読させたものである。
 妙なもので、やはり、素人でもフランス人の声で聴くと、巴里で芝居を観るのに近い印象をうける。「心理詩派」マゾオのエスプリと文体はほゞ呑み込めた。日本の俳優には一番苦手なやつである。第一、これがどんな翻訳になつてゐるか? 微妙なニユアンスが果して捉へられてゐるか?
 僕は、正直なところ、築地小劇場の自信をもつて世に問ふこの度の舞台に、半ば興奮に似た期待と、半ばわがことのやうな不安とを抱きながら、例の歴史的な銅羅の鳴り響くのを聞いたのである。

       八

 さていよいよ築地小劇場の旗挙公演である。胸おどる招待日の印象をこゝに書きとめることは、今の僕にとつてまことに感慨無量である。
 新装成つたこのバラツク劇場のフアサードは、一見、植民地の教会堂然たるものであつた。足を踏み入れた途端、妙に呼吸苦しい、取りつく島のないやうな感じがした。灰色の壁の低い空を思はせる陰鬱さもさることながら、アーチ形のプロセニウムが階段でオルケストルにつながつてゐる、その冷たく重い線のなかに、僕は、もう、「北方」を感じて、思はず肩をすぼめてしまつた。
 無装飾と単純さはありがたい。しかし、この渋面《グリマス》と臂の張り方はなんとしたものであらう?
 が、これは趣味の問題としておいて、幕のあがるのを待たう。
 やがて、あの歴史的な銅羅が鳴り響き、幕の向ふには、輝やかしい興奮の渦が巻いてゐるらしく思はれたが、われわれ、幕のこつちでは、くすぐつたいやうな微笑がそここゝで、「おどかすない」と云つてゐた。それは、別段、不愉快なものではなかつた。しかし、如何にも子供臭い威勢のよさで、かつ、若干異国的な不気味さを交へてゐるからだつた。
 この、どつちかと云へば、心和まぬ空気にもかゝはらず、僕は、熱心に、期待にあふれつゝ舞台に眺め入つた。
 幕間には、さすがに巨万の財力を基礎とする劇団の余裕をみせ、招待客全部に紅茶とサンドウイツチの饗応があり、僕などは危く辞退するほどだつた。
 そこで、舞台そのものゝ印象はどうであつたか?
 クツペル・ホリゾントとやら云ふ日本最初の背景装置はなるほど効果的であると思つたほか、実を云ふと、演しもの三つを通じて、その如何なる部分にも感心しなかつた。ちつとも面白くないのである。退屈至極でさへもあつた。時々は、腹立さしさに腕をよぢつた。あゝ、こんなことでいゝのだらうか?
 僕に、今夜の劇評をしろと云ふものがあつた。少し考へさせてくれと、僕は答へた。
 新聞の劇評は、僕には書けないやうな気がした。「この芝居は観に行くな」と云ふやうなものだからである。
 それにしても、まだ絶望するのは早い。僕は、公演の終る頃をまつて、需められるまゝに「新演芸」といふ雑誌に一文を送つた。「築地小劇場の旗挙」と題する「劇評」ならぬ「意見書」のやうなものである。
 次にその全文を掲げることにする。
〔以下省略〕



底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「劇作 第六巻第一号〜第九号」
   1937(昭和12)年1月1日〜9月1日発行
初出:「劇作 第六巻第一号〜第九号」
   1937(昭和12)年1月1日〜9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング