が何人も予想しなかつたセンセイシヨンを捲き起す例が屡々あるのはどういふわけだらうか? ミユツセ、ポルトリツシユは何れもさうである。原因は恐らく単純ではないであらう。しかも、優れた作品が長く埋れてゐたといふ事実に変りはない。ある時代が享け容れるものには限度があるといふことになるのであらうか? それなら、ある時代が享け容れないものとは、なんであらう。思想や形式の場合もあるだらう。しかし、それよりも、多くの例は、劇壇の因襲が、批評家や見物の保守的偏見が、伝統の新しい、飛躍的な発展に対して目をふさいでゐた証拠を示してゐる。が、また、ある場合は、上演の諸条件が、まつたくその作品の魅力を封じてしまつたことも想像できるのである。就中、配役の不適当は、ある作品にとつては致命的でさへある。
 僕は、努めて、上演後刊行された戯曲を読み直すやうにしてゐた。舞台で相当面白く、評判もなかなかよかつた作品が、活字で読むと一向つまらぬやうなものもあつた。
 そのうちに、僕は専門の劇作家が書いた戯曲と、小説家や詩人がたまたま書いたといふ戯曲とを比較してみる興味を感じだした。それから、今度は、小説家や詩人が戯曲を書いてみたくなつた動機を調べられるだけ調べてみた。で、最後に、作家と俳優とが、フランスではどういふ関係にあるか、俳優は与へられた脚本のテキストを何処まで尊重するか、作者は一字一句も変へさせないか、さういふことを注意してみた。
 ところが、意外なことには、劇作の筆を取るほどの文学者は、必ず相当の俳優を友人に持つてをり、自分の作品のプランを先づ話し、書きはじめると、時には一幕づゝ読んで聞かせ批評と忠告を聞き、更に書き改め、時には、合作の程度にまで協力を仰ぎ、いよいよ上演の運びになると、更に、稽古中、様々な修正推敲が行はれるのである。
 勿論、駈けだしの作者は、別に相談相手もなく、いきなり書いたものを劇場なり、これと思ふ俳優の手許になり持ち込むこともあるが、その場合、劇場主や俳優は、勝手に注文をつける。作者は、これをさほど侮辱とは考へてゐないやうである。
 このことはどういふことかといふと、作者が劇場主や俳優をある程度信用してゐるといふこと、事芝居に関しては、向ふが玄人だと思つてゐること、その玄人には結局触れられない一面で、充分、作者は自分の特色を作品の中に盛り得るものであることを知つてゐるのである。多少の無理を忍んでも上演して貰ひたいといふ欲望は、これはまた別である。文学者としての矜恃の問題は、もはや、個人的な領域であり一般論とはならない。要するに、作者と俳優との、仕事の上での見事な協力が行はれてゐること、俳優は作者を傷けることなしに、自分の主張を貫徹し、作品の価値を「相互の為めに」高める能力をもつてゐるといふことは、これは僕の一大発見である。日本の座附作者の例もあるから、形の上だけでは珍しいことではないが、真の芸術家として、文学と演劇との密接な融合をはかる実際的方法はこれ以外にはないのである。

 僕はフランスの演劇史並に主なる戯曲作家の評論をあさるうちに、傑作の蔭には必ず当代の名優があり、劇場の華やかな文化があつたことを見落さなかつた。勿論、天才的作家の出現がその周囲にひとつの新しい運動を捲き起すといふ事実も認めるには認めるが、その天才なるものが、やはり、伝統によつて耕された土壌、徐々に新機運を齎す雰囲気のなかにのみ育てられるものであることをも否認できないのである。従つて、僕は、所謂「先駆者」とその業績についても、時代の背景を否定的面でのみ判断することの危険を、しみじみ感じたのである。
 例へば、「既成劇壇が堕落しきつてゐたから其々の革新運動がこれこの旗幟をかゝげてかういふ大胆な試みをした」といふやうな記録だけで、その運動の正体はつかめないのである。
 早い話が、大戦後のあらゆる「新劇運動」を通じて、私が最も興味を惹かれたヴイユウ・コロンビエ座にしても、なるほど、ジヤツク・コポオはある意味で、「先駆的」には違ひないが、その反面には、「伝統」への忠実な奉仕者であり、「伝統」とは、全体的の進化といふものを認めた上での「変る部分」でなくて「変らない部分」なのである。さういふものが、最も進歩的な立場でさへ、はつきり重要なものだと断言できるフランスといふ国を、僕は実に羨ましいと思つた。
 僕は勢ひ日本の古典劇といふものに想ひを馳せざるを得なくなつた。
 結論を急げば、たとへ歌舞伎や能にどんな「演劇的伝統」があるにせよ、今、われわれの仕事は、これまで「日本にないもの」を一旦そのまゝの形で採り入れ、更に、これを「日本人的に」処理することである。その時、或は、「日本古典劇」の美学が、現代の精神のなかに蘇るかもわからない。それはそれでいゝ。たゞわれわれは、如何なる意味でも、もはや「歌舞伎的」表現に魅力を感ぜず、魅力を感じたとしても、それは自分の「旧さ」のせいであり、「あまりに日本人的」なせいであり、世界共通の文化を建設するための未来の劇場は、東洋の一孤島に於て特殊な発達を遂げ、近代的な頭脳や心臓と没交渉な、個々の創造がまつたく無力化したかゝる演劇形式からは何ものも受けつぐ必要はない、といふのが僕の最後の肚であつた。

       三

 千九百二十三年の七月、僕は、いはゆる業半ばにして巴里を去らなければならなかつた。観のこした芝居もまだあつたし、買ひ集めたい本もいくらかあつたが、日本で長男に生れると、かういふ場合に自由が利かないのである。
 足が十五年ぶりに踏んだ故国の土は、僕にとつてなんであらう?
 先づ食ふことを考へなければならない。
 見渡すところ、芝居の世界で僕の働けさうな場所は何処にもないのである。
 僕は、時節を待つ気持で、ぼつぼつ翻訳の仕事にとりかゝつた。先づ、ルナアルの戯曲を手はじめにやつてみようと思つた。
 戯曲の翻訳と云へば、外国に行く前、太宰施門氏とエルヴイユウのものを共訳したことがあるきりである。これは、井汲清治君と僕とで太宰氏に仏蘭西語の個人教授を受けた時分、テキストとして使つた「ラ・クールス・デユ・フランボオ」を僕がすぐに台詞調[#「台詞調」に傍点]に訳し直し、「帝国文学」といふ雑誌に出したものであるが、後に、「炬火おくり」といふ題で全く新しく改訳した。
 この翻訳の話も詳しく書くと面白いが、あまり余談に亘るからやめる。とにかく、新旧両訳を物好きな人があつたら比べてみてほしい。自分の恥を吹聴するやうなものだが、語学力の進歩といふやうなこと以外、フランスの芝居を観てからと、観ない前とで、同じものがかうも「違つて」感じられるかと思ふほどである。更めて断るまでもなく、最初の訳が二十五点とすれば、後の訳はまあ五十点から六十点の間であらうか? もう少し時間をかけ、その上原作に興味をもちつゞけてゐたら、八十点ぐらゐまでは僕でも行けるのではないかと思ふ。
 そこで、ルナアルの戯曲であるが、これは是非とも、勉強のつもりで、できるだけ丁寧に訳してやらうと思ひたち、先づ、「日々の麺麭」を訳した。毎日二三枚づゝ、気長にやつてゐると実に楽しい。
 が、実は、そんなことばかりしてゐられる身分ではないのだから、もう少し金になる仕事を見つけねばならぬ。幸ひ、友人の鈴木信太郎君や辰野隆氏などが、「フランス文学叢書」の計劃を発表し、僕にも何か訳さぬかと勧めてくれたので、早速、同じルナアルの短篇集「葡萄畑の葡萄作り」を、これは、散文だから一日三十枚平均、全部を十日あまりでかツ飛ばした。ルナアルの文体は散文と会話との間に微妙なつながりがあつて、戯曲を訳す参考になつたことは非常なものであつた。
 話は少し前後するが、帰朝後間もなく、僕は歌舞伎劇を一度観てやらうと思ひ立ち、鈴木信太郎君を誘つて、たしか市村座であつたらう、菊五郎一座を見物した。菊五郎といふ役者をこの時はじめて観たのである。勿論、完全に酔つた。巴里で最初に、ロスタンの「雛鷲」を見た時、やゝこれに近い感動を味はつたが、精しく云ふと、向うでは胸がどきどきしたくらゐであつたが、こつちでは、悲しくもないのに涙が眼がしらに満つて来るほどの違ひがあつた。
 僕は、この日の経験をあとでいろいろ考へた揚句、やつぱりかういふものだらうと思つた。歌舞伎といふものは、すばらしいものだ。菊五郎といふ役者は立派な役者に違ひない。僕は素直に、その魅力を享け容れ、純粋に芸術的感動を味つたと云へるであらう。が、しかし、僕の芝居といふものに向つて見開かれてゐる眼が、これによつて、少しも狂ひを生じたとは思へぬ。云はゞ、今日の日本に於て、芝居そのものはたしかに二つの道――二つの伝統を過去と未来にもつといふ事実を確め得たに過ぎぬ。その二つの道は同時にこれを踏んで行くことはできないのである。一方は過去より現在につながる伝統である。もう一方は、現在より未来へつながる新しい伝統なのである。その証拠に、菊五郎の芝居は、如何に完璧であつても、そこから何を生み出す力をもつてゐるか? 僕の不覚な涙は、或は民族的なある繋がりを証拠だてるかもわからないが、断じて、それは、未来性をもつものではないのだ。僕は歌舞伎の形式の美しさに、ある人々の如く芝居の本質的な生命を感じる雅量をもち合せてゐない。つまり、個人的な問題にふれることを許してもらへば、僕のなかにある封建的なものが、僕自身にはいやであり、しかも、うつかりするとそれが幅を利かすやうなことがあり、たまたま、友人と久しぶりで歌舞伎を見物するといふやうな場合に、この西洋劇の信奉者は、正体もなく馬脚を現はしてしまふのである。
 こゝで、はつきりさせておきたいことは、歌舞伎といふものゝ、世界演劇界に占める地位についてゞある。僕の意見では、これは東西に比類なき高級参考品である。殊に西洋の芝居が今日あるやうな発達のしかたをした後では、もはや、全く別個な一つの方向を開拓しなければならないことに誰でも気がついてゐるのである。日本のカブキは、かゝる時機に於て、誠に珍重すべき研究資料たるを失はぬのみならず、舞台表現の一つの究極として、これが時代的意義を詮鑿しない限り、寧ろ驚嘆に値する「新芸術」の見本なのである。
 ところが、現代日本の芝居を通じて、歌舞伎といふものゝ存在がどれほど新しい芝居の勃興を妨げてゐるかを考へたならば、観方はおのづから別にならざるを得ぬし、内容は取るに足らぬが、形式はそのまゝ受継いで行けるといふ議論の如きも、少し落ちついて考へたら、これは危険な議論だといふことがわかると思ふ。
 西洋人が歌舞伎に感心することは、日本人が西洋劇に学ばうとすることゝ、まつたく同じ動機から出てゐると云つていゝ。しかも、如何なる西洋人が、徳川時代の庶民的感情を真に理解し、その生活と風習とを批判したか?
「日本人的」といふ言葉に含まれるあらゆる非文化性、島国性、事大性、愚昧性を、たゞにその思想のなかばかりでなく、その表現形式の、一見豪華な、洗練された、又は単純素朴な伝統のなかに、われわれは発見することができるのである。
 われわれは、今日の世相のなかに、自分自身の周囲に、否自分自身のうちにさへ、既に「歌舞伎的なもの」を如何に多く、如何に根深く感じつゝあるか。われわれは、歌舞伎を観ずに既に歌舞伎に食傷してゐるのである。
 僕は、日本人自らが国宝と叫ぶこの伝統的舞台に対して、たゞ、反感を以てこれを斥けようとはせぬ。寧ろ、愛情を以て、「汝、占むべき地位を占めよ」と宣告する。
 さて、僕は、翻訳をつゞける傍ら、戯曲を書けるなら書いてみようといふ野心を棄てることができず、旧友で作家として名を成してゐるたゞ一人の人物を頭に思ひ浮べた。それは豊島与志雄君であつた。
 八月のある日のこと、豊島君を千駄木に訪ねて、例の「黄色い微笑」の一読を乞うた。その時は、たしか、「古い玩具」と題を改めてゐたと思ふ。
 豊島君は、その原稿を僕の手から受け取つて、先づかう云つた。
「君、原稿用紙は二十字詰を使ふ習慣になつてゐるんだ。書き直した方がいゝな」
 なるほど、僕
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