芝居と僕
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)商業劇場《テアトル・ド・ブウルバール》
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(例)|黄色い微笑《アン・スウリイル・ジヨオヌ》
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(例)※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
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一
今更回顧談でもないが、今度「現代演劇論」といふ本を出したあとで、僕は、なんだかこれで一と役すましたといふ気がふとしたことは事実である。これからまだあとにどんな役がひかへてゐるにせよ、それがまた今まで以上に満たされない結果に終るかも知れぬにせよ、ともかく、今日まで十数年の間、僕は、芝居のためにするだけのことはし、僕の能力で齎し得るだけの成果は収めたつもりである。もつとしたいこともあつた、やればできたかも知れないやうな仕事もあるにはあつたらうが、それらはすべて、熟慮の上、望み得る程度が、現在の諸条件に照して、あまりに低いものでありすぎる場合に、僕の熱情を掻き立て得なかつたまでゞある。云ひかへれば、自分が今そんなことをしても誰のためにもならぬといふ見極めをつけた上でのことなのである。
×
僕は最初、文学に志し、偶然仏蘭西語を子供の時からやつてゐたといふだけの理由で仏文学をかぢり、仏文学を原統的に学ばうと思ひ立つて先づ古典作家を読みはじめ、その代表的な作品が戯曲であつたところから、劇文学に興味を持ち、仏蘭西へ渡る機会を作るに当つて、将来の職業のことも考へた結果、日本に於ける演劇界の現状に一瞥を投げる気になり、当時の新劇運動を若干の舞台を通じて観察した。「復活」、「修善寺物語」、「忠直卿行状記」並に「その妹」、強いて附け加へれば坪内士行の「ハムレツト」、これが渡仏前に観た日本演劇の殆んどすべてゞあつた。
巴里で最初に訪れた劇場はサラ・ベルナアル座で、演し物はロスタンの「雛鷲」、一番前の列で、女優の凄いメーキアツプを孔のあくほど見つめてゐた。
現代作家のものは多少は読んでゐたが、ロスタンとヱルヴイユウを当代の双璧と思ひ込み、或は思ひ込まされてゐたものゝ、本場の消息を探つてみると、少くとも、一癖ある批評家は、この二人を問題にしてゐないことがわかり、大慌てに慌てた。そんなら、やつぱりキユレルが偉いかと云へば、「あんなもの」といふ奴がゐる。ポルト・リツシユの人気も侮り難い。新進のものを漁りだすと、いろんな影響がわかつて面白い。ミユツセ、ルナアルの陰然たる勢力をすでに感じた。ベツクの姿も大きく映つて来た。イプセンの亡霊が、シエイクスピヤの亡霊と手を組んで歩いてゐる。モリエールの哄笑が忽ち耳をつんざく。巴里人の眼を追つてそつちを見ると、クウルトリイヌといふ好々爺が小声で群衆に話しかけてゐる。その傍らで、ブリユウが、腐りきつて頬杖をついてゐる。
芝居は、本を読んで行かないと三分の一もわからない。見物が笑ふ時、こつちが笑へないくらゐ淋しいものはない。が、それでも、舞台を見て、はじめて作品のよさがわかるといふ気がした。当時の僕の、脚本の読み方が如何に覚束ないものであつたかといふ証拠になるだけではない。俳優といふものが、如何に脚本を活かすかといふことをはじめて学んだのである。舞台にあるものは、脚本にあるものと同一物であつて、しかも全く別個の物であるといふ演劇の真髄に触れ得たのは一年後である。
ヴイユウ・コロンビエ座のコポオにやつと僕の意を通ずる決心をした。研究生の資格で木戸御免の許しを得、隣の下宿屋に陣取つて毎日学校と舞台裏へ通つた。仏蘭西の芝居を理解するためには、何よりも西洋演劇の伝統をつかまねばならぬと感じた。それと同時に、さういふ伝統を生んだ文化、並に、仏蘭西の土壌について、考へねばならぬことが沢山あつた。舞台を通じて生活を見ることでは不十分なのである。生活を通じて舞台を感じる努力をした。その結果、一時代の演劇は、その時代の文化的生活人の手によつて形づくられねばならぬことを痛感した。作者は勿論、俳優が何よりもさうでなければならぬ。俳優であるが故に、民衆の偶像であつてはならないのだ。常人以上の人間的魅力――叡智と感受性の豊富さ――によつて民衆の心を捉へ得る人物なるが故に、一段高き舞台に立ち得るのでなければならぬ。近代の演劇とはかくの如きものであるといふ信念に到達した。それを除いた一切の「演劇的興行物」は近代芸術の名に価しないのである。従つて、日本には、まだ「新しい芝居」は生れてゐないと、僕は早くも断定を下してしまつた。
×
一九二十年から二十三年にかけての巴里は、凡そ五十年に一度といふ演劇的開花期であつた。今から考へると、恐らく欧羅巴に於ける最後のそれではなかつたかと思はれる。その頃巴里にゐたわれわれは、演劇のあらゆるジヤンル、あらゆる時代、あらゆる民族的創造のコンクールを極めて短時日に閲覧し得る幸福に恵まれた。
モスコー芸術座のレアリズムからアール・エ・アクシヨンの主観主義を通じて、近代の舞台が進まうとする方向と求めつゝある精神を検討し得た。「一切の新しさは、そのものゝ変化する部分である」ことが明瞭になつた。
「新しさ」はまことに、当時の僕にあつては眩惑的な魅力であつた。しかし、日本の演劇に何かを附け加へる必要があるとすれば、それは寧ろ、欧洲の演劇史を通じて、その「変る部分」よりも「変らない部分」なのだといふ見当がつきはじめた。
それはなにか?
僕は、ヴイユウ・コロンビエ座の仕事と精神のなかに、最もその顕著なるものを見た。何が「演劇を作るか」といふ根本的な問題がそこに横はつてゐた。日本には、「新しい演劇」がないばかりでなく、「演劇の正統的なもの」が見失はれようとしてゐたのである。
僕は、日本から新作家の戯曲を取寄せて読みくらべてみようと思つた。私は誰の名もはつきり知らなかつた。一マルクス学徒たるN君が、選択して送つてくれたのが、長田秀雄、吉井勇、武者小路実篤、久保田万太郎の諸家であつた。
自分が戯曲家にならうなぞとは夢にも思つてゐなかつたから、これらの作品に、それぞれ辛い点をつけた。が、不思議なことに、一見、甚だ日本的と思はれる久保田万太郎氏を、僕は、そのなかで最も西洋演劇の伝統につながる作家とみなし、その意味を深く考へた。
×
その頃、露西亜人ピトエフ夫妻が、超民族的一座を結成して巴里で旗挙げをした。上演目録の多様性に興味を惹かれ、首脳者ピトエフの演出者としての独自なシステムに学ぶところがあると思ひ、僕は、一日彼の楽屋に刺を通じた。彼の芸術的放浪は、当時の私を感傷的に共鳴させたが、それよりも第一に、孤立無援の演劇運動が、如何に犠牲多き事業であるかを知らしめた。ピトエフの名は次第に聞えて来た。座員は悉く饑えてゐた。「どん底」のルカに扮した一俳優は、マチネの終演後、僕の勧誘に応じてさゝやかなランチを共にしたのだが、彼はミユーズの嫣笑に身を持ちくづした男と自称し、ピトエフを恨みつゝ去り難き理由を説明した。
さう云へば、ヴイユウ・コロンビエの有力な俳優も、その動機はなんであれ、一人づゝ離れて行く気配が感じられた。劇団が「食へる」まで、個人は付てないのである。僕は、いろいろの事情を綜合して、これを俳優の「巣立ち」と呼んだ。事実、成長した才能は、これを迎へる手が八方にひろげられてゐるのである。
×
この間に、僕は、所謂「商業劇場《テアトル・ド・ブウルバール》」と「前衛劇場《アヴアンギヤルド》」との関係を調査した。そして、更に、国立劇場と俳優学校の意義と使命について、あらゆる否定的な論議を透しつゝ、これを肯定的に批判する立場を発見した。
演劇の芸術的発展と、文化的基礎の二元的考察がそこから生れるのである。
戯曲家が優れた作品を生む経路もほゞ理解され、時代の要求に応ずる俳優が、如何にして現はれるかの順序も、一切の例外を含めて截然と僕の頭のなかに描き出された。
アントワアヌとスタニスラフスキイとコポオと、この三人を同時にシヤンゼリゼエの舞台の上に見た記憶は、僕の演劇理論を組み立てる象徴的な夢なのである。われわれは、その何れをも真似る必要はない。たゞ、彼等が、何ものであり、如何なる時代に生き、何ごとをなし得たかを知ればいゝのである。
僕は、仏蘭西で食へなくなつたら、日本へ帰るつもりでゐた。食へなくなる怖れがだんだん増して来た。日本へ帰つたら、ひとつ、帝劇舞台監督の助手にでも傭つてもらはうと考へてゐた。そして、その傍、独特な仏蘭西演劇史の稿を起すつもりでゐた。舞台監督助手が駄目だつたら、翻訳の仕事でも探さう。尤も、僕が訳したいと思ふものは、みんなもう訳されてゐるだらうとも考へ、内心不安であつた。
×
ある日、ピトエフと楽屋で話をしてゐた。なにか日本のものをやりたいが、どんなものがあるだらうといふ。僕は即答ができかねた。第一に、なんにも知らなかつた。第二に、手許にある僅かな脚本は、やらせたくないものか、やらせても駄目なものばかりのやうに考へられた。僕は、黙つて別れたが、ひとつ、づるいことをやつてやらうと思ひつき、早速、生れてはじめてと云つていゝ現代劇の創作にとりかゝつた。一週間後に、知合ひの仏蘭西人の協力を仰いでそいつの仏訳をまとめ上げた。題して、「|黄色い微笑《アン・スウリイル・ジヨオヌ》」!
ピトエフに見せると、「こいつは面白い」と云つた。嘘のやうな話だがほんとである。
その数日後、私は、喀血をして、下宿のベツトで死の覚悟を決めた。が、死は僕を見放した。かくて、シヤンゼリゼエの小屋に無限の心残りを感じつゝ、医者の勧めで南仏ポオへ旅立つた。ピトエフからはなんの便りもなかつた。
いよいよ、仏蘭西を去る日が来た。僕は、ピトエフに別れを告げに行つた。彼は、「黄色い微笑」について語るところは少く、たゞ、「ピトレスクだが、上演となると……」で、あとは言葉を濁してしまつた。夫人は、女主人公フサコがやつてみたいと云つた。お世辞であらう。
×
当時、巴里にゐた辰野隆氏は、僕と劇を談ずる唯一の友であつた。私は、この先輩に、ちよつと照れながら、自作の脚本といふやつを読んでみてくれと頼んだ。念のため、といふわけでもなかつたが、いくぶん本気だといふ意味を伝へるために、この仏訳をピトエフに見せたこと、彼の批評はまんざらでもなかつたことを附け加へた。辰野氏たるもの、さぞ困られたことであらう。いくぶん本気で読むことを強ひられた形であつた。
ここで、辰野氏の好意に満ちた激励の言葉を書き列ねる必要はあるまい。
友情は、つひに、私を駆つて、この処女迷作を日本に持ち帰らせたのである。
二
さて、もう一度話を前に戻す。
日本にゐる頃、学校の教室や、僅かな参考書や、たまにのぞいてみる新聞雑誌の類で、現代フランスの劇壇について若干の知識を得たつもりでゐたのが、巴里へ渡つて実際の情勢を探つてみると、いろいろ新しい問題にもぶつかり、ぼんやりしてゐたことがはつきりし、今迄の価値判断が根こそぎ覆されるといふやうな始末であつたが、僕は、それについてかういふ風なことを考へた。第一に、芝居、殊に戯曲がほんたうに優れたものであるかどうかは、上演の結果だけではわからないのみならず、肝腎なことは、その時代の文学一般との関係に於てこれを検べなければならないのではないか? 従つて、劇評家の批評だけでは、何か肝腎なものが見落されてゐる惧れがあり、やはり文芸批評家の批評と併せて、その作品の時代的意義が全面的に浮び上るのではないかと云ふこと。
第二は、初演には大成功を収めたといふものが、だんだん人気を失つて行くに反し、最初は冷評乃至酷評を受けたものが、十年二十年とたつてから、たまに再演される機会を恵まれ、これ
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