を踏み込んでゐたら、もつと激しいシヨツクを受けてゐるであらうことは勿論、やがて起つた所謂「演劇復興」の掛声に対しても、また別な感慨をもつてこれを迎へたであらうと想像されるのである。
早く云へば、劇場の封鎖も雑誌の休刊も、当時の僕には、それほど痛痒を感じさせなかつたと云へるかも知れない。あの混沌たる情勢のなかで、僕は早くも自分の原稿のことなど忘れてしまひ、明日から親同胞を養つて行く職業のことを想ひめぐらした。そして、古本屋をやらうと決心するに至つたこと、それがおいそれとは出来なかつたこと、そこへもつて来て旧友鈴木信太郎君から耳よりな仕事の話を持ち込まれたこと、など、詳しく語つてゐる暇はない。
たゞ、この仕事の話といふのは、前にも云つた「フランス文学の叢書」といふ厖大な翻訳事業のことで、例の辰野氏、豊島君などもこの計画に加はつてゐる関係から、僕は自分の好きなものを勝手に引受けるといふ特権(?)を与へてもらふ形になつた。で、僕は先づそのなかゝら二つを撰んだ。例のルナアルの「葡萄畑の葡萄作り」と、アナトオル・フランスの「鳥料理レエヌ・ペドオク」である。このことを特にこゝで記しておくのは、僕のその頃傾倒してゐた二人の作家の名を計らずも掲げ得る機会を得たからである。「鳥料理」は、つひに手をつけずにしまつたが、その叢書の刊行も書肆側の都合で完成をみなかつたと記憶してゐる。
さて、さういふ先の長い仕事がみつかつた以上、慌てることはないのである。そこへもつて来て、棚から牡丹餅式に、豊島君からと鈴木君からと、語学教師の口がかゝつて来た。一方は法政大学、一方は中央大学で、それぞれフランス語を教へてみろといふのである。時勢の移り変りは恐ろしいものだと思ふ。当時は、まだ文学士の数は足りなかつたのである。
戯談は別として、僕もいよいよ先生になる覚悟をきめ、収入の足らないところは翻訳と個人教授で埋める方針をたてた。そこで、住居も便利なところをと思ひ、牛込若松町の坂下に一戸を借りうけ、専門の芝居にはしばらく別れを告げる意味で、門口に「仏蘭西語教授・モリエール学会」といふ看板を掲げた。仏英和女学校の附属小学校のオカツパの生徒が一人、女中に連れられて習ひに来てくれたことはせめてもの慰めであつた。
いや、慰めと云へば、もつと大きな慰めがあつた。時々、山本有三氏宅で、文学や芝居の話をするグループ
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