に会ふことであつた。
 ある日のこと、その席上で、新しい演劇雑誌が創刊されること、それにはわが劇壇の錚々たる名士が挙つて同人となり、演劇復興を目指して大いに新風を鼓吹する方針で、その編輯責任に山本氏自身が擬せられてゐるといふ景気のいゝ話が持ち出された。
 なるほど、みんなの顔色でもそれがどんなにセンセイシヨナルなニユースであるかは察しられたが、実は、かういふところが、当時の僕にはぴんと来ないらしく、新しい雑誌といふ意味が、新しい演劇運動といふものにそれほど結びつかない。が、こいつは不思議でもなんでもない。僕は、日本の劇作家が雑誌のなかから生れるといふ重大な事実を知らなかつたのである。

       六

「演劇新潮」はその年の暮に、創刊大正十三年正月号を出した。
 同人として左の人々が名前を連ねてゐる。
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伊原青々園
池田大伍
小山内薫
岡本綺堂
吉井勇
谷崎潤一郎
中村吉蔵
長与善郎
長田秀雄
久保田万太郎
久米正雄
山崎紫紅
山本有三
里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
菊池寛
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 編輯は山本有三氏これに当り、その下に、能島武文、北尾亀男の両氏が働いてゐた。
 今、その創刊号といふのを開いてみると、当時僕の気のつかなかつた劇壇の情勢が、手にとるやうにはつきり眼に浮ぶ。「復興後最初に見たい、演じたい、監督したい、装置したい脚本」といふ諸家のハガキ回答も、この雑誌の誕生を意味づけるものである。
 僕の処女作「古い玩具」は、さういふ関係で、この雑誌の第三号に載せてもらふことになつた。
 無名作家の、なにしろ百枚以上のものを一度にのせるといふのは、編輯者としては冒険であつたに違ひない。現にその月は二つしか戯曲がのらないので、後記はその断りを陳べてゐる。
 さて、雑誌が店頭に出ると、僕はさすがに落ちついてゐられなかつた。誰がどこで読んでゐるかわからないと思ふと、外へ出るのも面映ゆいと云つたあんばいで、甚だ滑稽であつたが、果して、未知の読者から若干の手紙を貰つた。なかに、シユニツツレルを想はせるなどゝいふ有りがたい批評もあつて、僕はぼつとした。ところが、二三日して、読売新聞文芸部記者の訪問を受けた。これは大事件だ。僕の経歴を話せといふのである。写真を撮らせろといふのである。僕は神妙に問ひに答へ、レンズの前に坐つた
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