対する非難なんです。一つの文化がある。さういふ儀礼的の、或は儀式的の、或は装飾的の形をとり出すと、それに対して必ず反撥をする、義憤が生ずる。それがある場合には、例へば、文明を呪ふ、原始に還る、或は野蛮の状態に憧れるといふ反動的な現象を呈するので、その現象自身はやはりひとつの時代の文化的運動だと思ひます。
さういふ風に、今日の智識階級が、芝居といふものを観に行かなくなりまして、自分達の求める芝居がないといひながら、実は種々な意味で、自分達が実生活に於いて役者になりつゝあるのです。今日我々は、新聞などで名前を見たり、或は写真を見たりする、所謂世間の名士、その名士の公の言行を見ますと、みんな舞台に立つて一役演じてゐるやうに見えます。殊に、最も極端なのは、世界の専制政治家を代表する三人、ムツソリーニ、ヒツトラー、スターリン、この三人は実に、写真を見ますと、或はその行動を見ますと、先づ第一に、名優だといふ印象を受けます。恐らく、これは少し前までは、英雄といふ言葉で云ひ現はせたらうと思ひますが、今日、我々は英雄といふ言葉を忘れ勝ちですから、名優といふ言葉の方が直ぐにピンときます。しかも名優といふ言葉にはスターといふカナをふりたいやうに思ひます。
先程申しました、職業によつて一つの俳優的なものを身に付けてゐるといふのは、これは決して、その人達が自分達の一時代で造り上げたものではなくて、一つの伝統的遺産なのであります。さういふ遺産が、社会の種々な部門或は方面に、ちやんと出来上つた時に、初めて演劇といふ形が、非常に完成された状態で表れて来ます。さういふ時代が所謂演劇時代なんです。
今日の日本のやうに、文化の各部門が、夫々一定した伝統的な遺産をもつてゐないで、或るものは西洋風に、或るものは東洋風に、又或るものは東洋でも西洋でもないその中間にといふ、さういふ風に生活の上で、種々な様式をまち/\に、統一なく採用してゐる時代、かういふ時代は、非常に演劇といふものが興りにくい時代でありまして、その時代には、どちらかといふと、一般の民衆がそれぞれ、自分自分の実生活の中で、演劇を育みつゝある時代なのであります。ところが今、生活の中にさういふ風に、或る芝居的なものが生れつゝあるといふこと、また個人々々が、生活の中でそれぞれ役者であるといふ時代は、同時に、かういふことが云へます。即ち我々が、芝居
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