の中に求めるものは何かといふと、芝居ではなくて、生活であるといふことであります。これが一時代前とは、芝居に対する要求が、違つて来てをります。芝居の中に、芝居を求めるといふことは、確に、芝居の盛な時代――芝居の爛熟期――の一般民衆の要求でありました。
 さて、かういふ風に近代に於いては、芝居の中に生活を求めます。この生活が、先程言ひました「そこに生活がある」「彼は生活をもつてゐる」といふ意味での生活であります。近代劇は、先づさういふ意味に於いて、過去の演劇と、はつきり区別されると言つてよいのです。日本の芝居は、今日まで、新しい形で皆さんの前に表れて居りません。それは、舞台の上に実際さういふ意味での生活が、未だ盛りあげられないためであります。
 実際生活の中に芝居を発見する眼を有つてゐる我々は、この舞台の上では生活を求めます。この、芝居に生活を求めるといふことは、戯曲がまづ文学であるといふことと、もう一つは俳優が生活人であるといふことの、この二つのことが今日の必要な問題であります。さて、戯曲が文学であるといふことはまづ判つたとしても、俳優が生活人でなければ、我々は満足出来ないといふことは、これは、過去の日本の芝居に対して我々が不満を感じる、その感情を分析すれば直ぐ解るわけであります。
 私は、芝居の方を専門にやつてゐる者として、新しい芝居といふものに対して絶望をしてゐません。と言ふのは、さういふ風な時代的の特殊な事情で、今我々の生活とそれから我々の求めてゐる或はもつべき芝居といふものとの接触点が、漸くはつきりしだした時代である、と思ふからであります。我々は、もつと生活の中に、いい意味での芝居を造り上げなければならないのです。そして舞台の上では、正しい意味の生活をもり上げなければならないのです。さういふ風にして結局両者の間に一つの交流作用が、日本の文化が健全に進んで行くにつれて、出来るのではないかと思ひます。
 あとで、ヴイルドウラツクの「商船テナシチー」がありますが、このトーキーはさういふ意味で、恰度現在日本にも欲しいと思ふ芝居の一例だと思ひます。映画と芝居との違ひといふやうなことは、専門的に言ふと種々喧しいことがありますけれども、辻君が言はれましたやうに、日本の現代の智識階級は、劇に求めてゐるものを外国トーキーに求めてゐる、それによつて満足してゐると言つてよいのであり
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